誰かと一緒に旅に出たのは、ずいぶん久しぶりのことだった。マームとジプシーが『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』でツアーに出ることになり、ぼくもその旅に同行した。2週間かけて城崎と善通寺を巡り、東京に帰ってきた翌日、自由が丘駅で藤田君と待ち合わせた。
朝10時、駅前にある自由が丘デパートでは開店準備が進められている。「デパート」と名前はついているけれど、戦後の闇市を起源に持つ商店街ビルだ。小さな間口の店舗が密集する姿に、昔の名残を感じる。自由が丘デパートを通り抜けると、細い道路を挟んで、今度は「ひかり街」と名づけられた商店街ビルが建っている。こちらも闇市を整理して建てられたビルだ。「ひかり」という言葉に、目を奪われる。この名前をつけた誰かは、どんなひかりを見ていたのだろう。
ひかり街を端まで歩くと、駅に引き返す。「駅っていう面に対して、斜めの線になってるところが多いな」。駅前の風景を眺めながら藤田君が言う。「こういう斜めの線になってるところって、たぶん何かの名残りですよね。いろんな折り合いの中で、『ここは斜めのままでいこう』ってことになるんだろうな。自由が丘って、角度がいっぱいありますよね」
自由が丘駅は東急東横線と東急大井町線が停車する。二つの路線が交差していることも、角度が増えた原因なのだろう。たしかに、自由が丘を歩いていると、すぐに方向感覚を失ってしまう。
電話魔というのがいつからか横行している。用もないのにニセの電話をかけて、相手がマゴつくのをみてたのしむてあいである。
――モシモシ、安岡さんのお宅ですか? こちらは三河屋酒店ですがねえ、ファンの方からビールをとどけるようにたのまれたんですがねえ、お宅がわからなくて困ってるんです。そうです、ビール一ダース。いま自由ヶ丘の駅前の交番にいますから、迎えにきてくれませんか?
僕のような者にビールを一ダース、ただでくれるとは、ずいぶん奇特な人もいるものだ。それにしても自由ヶ丘まできていて家がわからないとは、なんという間の抜けた酒屋だろう(…)ともかく、せっかくくれるというものを、そのまま返すのも気の毒だと、わざわざ自由ヶ丘まで出向いてみると、交番の前には、だアれもいない。念のために、お巡りさんに、「一時間ほどまえ、すこしタリなそうな酒屋の小僧がきませんでしたか」ときいてみても、知らないという……。
なんのことはない、遠藤周作のイタズラなのである。
(安岡章太郎「欺くは欺かるるもとなり」『やせがまんの思想』)
東急大井町線の線路に沿って、西に進んでゆく。しばらくは線路と道路が斜めに交差していたけれど、大井町線は緩やかに弧を描き、道路と平行になる。彼岸花が咲いている。等々力通りを進んでゆくと、ほどなくして九品仏駅があり、駅前に小さな商店街がある。数分歩くごとに駅が見えてくる。九品仏の次は尾山台だ。
安岡章太郎は大正9(1920)年――つまり今からちょうど100年前――に高知県で生を享けた。父は陸軍獣医だったこともあり、軍隊の駐屯する町を転々とする。そのひとつが善通寺だ。終戦後は大森や田園調布で下宿暮らしを続けたのち、昭和29(1954)年に結婚し、翌々年には長女が誕生する。そのあとで尾山台に居を構えると、亡くなるまで尾山台に暮らしていた。
子供が生まれてしばらくの間、私は大体において幸福な環境にあったようだ。昭和三十一年といえば、一般の生活水準もようやく戦前のそれを上回りはじめたころではなかったろうか。とにかく赤ん坊のミルク代に苦労するようなことは、私にはなかった。家はまだ間借りだったが、公庫のクジが当たって、十二坪半の小住宅もほどなく完成するところであった。戦後ながらくわずらった脊椎カリエスもこのころには完全に完全に治癒しており、要するに諸事万端が順調にはこびそうであった。
(…)
子供ができたからといって、私はこれまでの生活を変えたいとは思わなかったのだが、何といってもさまざまの点で世間並みになってきた。それまでは夫婦とも十二時ごろに起き出して、寝るのは朝の四時か五時だったのが、そういうわけには行かなくなった。じつは私のとこには、それまで時計もラジオもなく、時間は電話で時報を問い合わせたりして間に合わせていたのだが、授乳の時間とやらがあってそういうわけにも行かず、目覚時計を買ったついでにラジオも買い、しばらくたって洗濯機と冷蔵庫を買い、結局はテレビも買ってしまった。テレビとラジオはともかく、あとの三つはみんな子供のために必要だと女房にせがまれてととのえたものだ。しかしこういうことは、子供よりは私自身の生活に影響するところが大きかったようである。(…)
(安岡章太郎「モン・パパの記」『やせがまんの思想』)
東急大井町線に沿って街が続く。その途中に保育施設があって、小さなグラウンドでこどもたちが体操をしていた。その動きはほとんどラジオ体操なのだけれども、音楽がまるで違っている。もしこどもがいれば、「東京のどの街で暮らすのか?」という視点も変わってくるのだろう。体操を踊るこどもたちを横目に歩きながら、「ああいう号令みたいなのって、昔からすごい怖いんですよね」と藤田君がつぶやく。号令を怖いと感じる人と、号令に鼓舞される人とを隔てるものは何だろう。
安岡章太郎と親交の深かった作家に、吉行淳之介がいる。太平洋戦争が始まったとき、吉行は16歳だった。その日は学校にいて、「休憩時間に事務室のラウドスピーカーが、真珠湾の大戦果を報告した」という。それを聞いた「生徒たちは一斉に歓声をあげて、教室から飛び出して」ゆく。吉行少年はひとり教室に残った。そして「そのときの孤独の気持ちと、同時に孤塁を守るといった自負の気持ちを、私はどうしても忘れることができない」と回顧する。戦時中に甲高く叫んだ人たちは大勢いたけれど、吉行は「思想」ではなく「生理」によって――つまり「遺伝と環境によって決定されているその時の心の膚の具合といったもの」によって――戦争を嫌悪していたのだ、と。
吉行淳之介や安岡章太郎は「第三の新人」に分類される。彼らが文壇で短編小説を発表し始めたころ、同世代の評論家・服部達が「新世代の作家たち」というタイトルの文章を発表する。服部は第三の新人に共通する要素として、「内容形式ともに小ぢんまりしている。作家の精神自体が小さくマトまっていて、小市民的である」、「戦後派作家との対立がある」、「素朴実在的リアリティーへの依存」、「私小説的伝統への接近」、「批評性の衰弱」、「政治的関心の欠如」を挙げた上で、その原因に戦争からの影響を挙げる。
戦争が彼らに共通に与えた影響は、まず彼らの精神形成が戦争中になされたという面であらわれている。一九三六年に二・二六事件が起った。太平洋戦争の勃発が一九四一年であり、同終了が四五年であるから、三六年に二十歳であった人たちから四五年に二十歳であった人たちに至るまでは、おおむね、その精神形成の時期と戦争が重り合ったと見てよい。外部には暴力的な状況があり、彼らの精神はその中で育って行った。比較的年長者にあっては、外部の暴力を避けてその片隅に小さな別世界を形づくる余裕のある一時期が与えられた。年齢が若くなるほど、特殊な条件に恵まれた人々にしか、それが出来なくなった。(…)
(服部達「新世代の作家たち」『近代文学』1954年1月号)
戦争中に若者だったこの世代は、つまり、もっとも戦死者が多かった世代でもある。安岡章太郎は「戦後派と呼ばれるよりも、戦前派と呼ばれるよりも、戦中派がいちばんピッタリとくる」と書いている。戦中派という呼称は「フル・ネームで呼ばれるような感じ」で、「たちまちに周囲の何人かの顔を想いうかべて、ある特殊な親近感をおぼえる」という。それは、服部達が言うところの「片隅の小さな別世界」を作る余裕が、「われわれ庄野や吉行や私たちには、最小限しか与えられなかった」という点にある。もちろん、「片隅の小さな別世界」をまったく必要としない人だっているけれど、「私や庄野や吉行は、それぞれの理由によって、たとい極微小のものでも、この別世界は絶対に必要だった」と。
それを認めたうえで、安岡は「おれは果たして“戦中派”だろうか?」という疑問にとらわれる。それは、「仮に戦争がなくても、やっぱり“戦中派”そっくりの人間になっているのではなかろうか」と考えるからだ。
(…)自分の書くものの中にあらわれている挫折感、孤独、自己閉鎖等々が、戦中派の属性と機械的に結びつけて考えられる場合のことを想像して、或る危っかしさをおぼえた。無論、戦争は私にとっても不幸な経験であった。しかし、それは一般論としての不幸であって、私個人の個々の事情は戦争によって、何がどう変えられたかは、ほとんど推量が不可能なほど複雑微妙なものがある。(…)私は結局のところ実際には戦争からは何の被害もうけておらず、私の元来の弱点を自分で勝手に戦争と結びつけて考え、世間でもそのように思われているのかもしれないのである。
(安岡章太郎「ちいさな片隅の別世界」『軟骨の精神』)
わたしたちの生活は、時代の影響を受けている。ただし、同じ社会情勢の中を生きていても、「ちいさな片隅の別世界」を必要とする人もいれば、それを必要としない人もいる。『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』という作品にも、そうしたモチーフが描かれている。
この作品は、藤田君が初めて海外で上演した作品だ。2013年の春、フィレンツェでの公演に先立っておこなわれた記者会見で、藤田君は「悲劇的な出来事と、僕らの日々との距離を描きたい」と語っていた。「悲劇は悲劇としてあるんだけど、僕らは普通に生活をしてるわけですよね。悲劇は悲劇として悲しいとは思うんだけど、悲劇の悲しさを描くんじゃなくて、その距離を描きたいと思っています」と。
『てんとてん』の舞台となるのは小さな町で、登場人物たちは中学3年生だ。この町に暮らす“あやちゃん”は家出をして、森の中でキャンプを始める。そのきっかけとなったのは、この町で起こった、3歳の女の子が殺されて、用水路に棄てられた事件だった。そんな事件があっても、いつもと変わらぬように学校に通い続ける同級生に、“あやちゃん”はこう問いかける。
あや でもなんでみんなそんなに、、、、、、器用に振る舞えるわけ、、、、、、?
しんたろう は、、、、、、
あや いや、、、あんなことがさあ、、、あったのに、、、、、、
しんたろう え、、、、、、
あや なんでそんなにみんな、、、普通に日常に戻れるわけ、、、、、、?
しんたろう いやそれはさあ、、、、、、
このシーンが2019年に観るのと、2020年に観るのとでは、印象は違ったものになる。このテキストは、今の状況を予期して書かれたものではないけれど、2020年の今、このシーンを観ていると、今の状況が頭に浮かんでしまう。
『てんとてん』には、町を出るというモチーフが描かれる。第一志望の高校に合格した“さとこちゃん”は、春になればこの町を出ていくのだと、同級生の“あゆみちゃん”に打ち明ける。そして、この町から、こんな町から出ていけることになって安心しているのだと、言葉を続ける。それに対して、“あゆみちゃん”はこう返答する。
あゆみ わたしはさあ、、、でも、、、
さとこ うん、、、、、、
あゆみ わたしはさあ、、、でも、、、、、、この町に残るよ、、、、、、そうそうそう、、、、、、、
さとこ そっかそっか、、、残るのか、、、
あゆみ この町で、、、進学して、、、、、、たぶん、、、高校を卒業しても、、、、、、この町にいるよ、、、、、、
さとこ ふーん、、、、、、
あゆみ さとこちゃんが言う、、、、、、「こんな町」に、、、残るよ、、、、、、わたしは、、、、、、
さとこ うん、、、、、、わたしには理解ができないかもしれない、、、、、、こんな町に残るなんて、、、、、、
あゆみ あ、、、そう、、、、、、
さとこ こんな町に残ったってさあ、、、、、、
あゆみ さとこちゃんにとっては、、、、、、そうなんだろうね、、、、、、
さとこ うん、、、、、、
あゆみ でも、、、わたしは、、、この町から外の世界に出ていくことが、、、、、、イメージできないんだ、、、、、、
さとこ そうなんだね、、、、、、
あゆみ それはだって、、、出ていくのも、、、残るのも、、、、、、ひとそれぞれじゃん、、、、、、
さとこ うん、、、、、、
あゆみ なにが正しい、、、とかもないだろうし、、、、、、なにを選択するか、、、、、、ってだけで、、、、、、
さとこ うん、、、、、、
あゆみ さとこちゃんは、、、出ていって、、、、、、
わたしは残る、、、っていう、、、、、、ただそれだけだからさ、、、、、、
さとこ うん、、、、、、
あゆみ でもだからもう、、、これで、、、お別れだね、、、わたしたち、、、、、、
さとこ そうなるか、、、、、、
“さとこちゃん”や“あゆみちゃん”が暮らしているのは「小さな町」だ。だから、この作品において「町を出る」ということは、「上京」という言葉に近いニュアンスを帯びていた。でも、今年の上演を観ていると――城崎や善通寺といった、新型コロナウィルスの感染者がほとんど発生していないとされている町で観ていると――「町を出る」というイメージが、これまでとは反転しているように感じられた。“さとこちゃん”が「こんな町に残ったってさあ」と言うとき、その「こんな町」という言葉が、東京にも重なりうるように感じたのだ。
今年の夏には、東京都の人口は減少に転じ始めたという。東京から人が離れ始めた今、藤田君も、そしてぼくも旅から戻り、こうして路上を歩いている。旅に出たままどこかに定住することもなく、必ず東京に戻ってきている。この街に、わたしたちは何を見ているのだろう。
等々力通りの歩道にはガードレールがなく、ポラードだけが設置されている。点々と続くポラードに触れながら、「こういうの、全部触りながら歩きたくなる」と藤田君が言う。等々力駅を過ぎたあたりからはポラードがガードパイプに変わる。上野毛通りと交差するところで、等々力通りは途切れる。環八通りを越えると急な下り坂が見えてきた。この坂を下ってゆくと、「吉行」「宮城」と表札が掲げられた建物があった。
この場所に住みはじめて五年になるが、門を出て坂道を下り五分ほど右へ歩くと多摩川の河原に出る。その反対に、左へ坂道を登って同じ時間を歩くとパチンコ屋に着く。ところが、ずっと病気がちだったので、ぶらりと散歩という気分が起ってきたのは今年になってからである。
そこで、門を出て左へ坂道を登ることが、しばしば起るようになった。つまり、パチンコ屋へ行くわけである。茶色の運動靴を素足につっかけて、ズボンとシャツ姿で出かける。テレビには出ないことにしているので、さいわい顔は知られていない。
(吉行淳之介「パチンコ雑話」)
吉行淳之介は、中学生のころは旅行が好きだったという。しかし、ほどなくして戦争が始まると、旅行どころではなくなった。終戦後も「二度倒産した会社をその度につくり直したりして働きつづけていたので、金も暇もなく旅行どころではなかった」せいで、生活に余裕ができてからも「一度も避暑というのをしたことがな」く、「依怙地に暑い東京にいる」という。そう吉行が綴っているのは、「街角の煙草屋までの旅」と題したエッセイだ。
このエッセイの中で、吉行はヘンリー・ミラーを引きながら、旅とはなにかを考える。ヘンリー・ミラーは、「私たちが飲み屋や角の八百屋まで歩いていくときでさえ、それが、二度と戻って来ないことになるかもしれない旅だということに気が付いているだろうか」と記す。「そのことを鋭く感じ、家から一歩外へ出る度に航海に出たという気になれば、それで人生が少しは変わるのではないか」と。
ミラーの文章は、以下どんどん哲学風になってゆくが、ここに引用した部分を私の都合のいいようにねじ曲げると、「街角の煙草屋まで行くのも、旅と呼んでいい」ことになる。
そうなれば、角の煙草屋までとか坂上のパチンコ屋まで、私はしばしば旅立っていることになる。それは半ばは冗談だが、かなり本気の部分が含まれている。ミラーのその作品を読む前に、「都会の中の旅」という題名のエッセイを私は書いている。以前から、自分の住んでいる都会の中を動くことを、私は旅と受止めているところがあるようだ。
(吉行淳之介「街角の煙草屋までの旅」)
ここに挙げられている「都会の中の旅」というエッセイは、「私には、ゼンソクという厄介な持病がある」と書き始められる。そして、それが「ここ数年間、旅行らしい旅行をしたことがない」理由であると続く。吉行が上野毛に引っ越した理由も、健康上の理由によるところが大きかったのだと、インタビューで語られている。
吉行 (…)ところで、少し風流な話をしましょう。沈丁花と金木犀のはなし。
――にわかに話題が変わりましたね。
吉行 いや、そうでもないんだ。昭和四十三年に上野毛に引っ越したんだけど、その前は北千束という、目黒区と世田谷区と大田区の境目のところにいて、借家住まいしてた。そうしたら、環状七号線の工事が始まって、つづいて目蒲線が地面の下にもぐる工事、おまけに裏がドライブインになる工事……。(…)ドライブインが完成して、マフラーを外した馬鹿な車が夜中にゴーゴーとエンジンをふかすんで、どうもここに住めそうもないっていう感じで引っ越した。そのときに金木犀を三株と銀木犀を一株移し植えたんだ。そういう風流な余裕はぼくにはなくて、行動的な同居人宮城まり子の仕業なんだけど、北千束では一度も花がつかなかったのが、四十四年の秋にはもう咲き始めた。あれは空気のきれいなところで咲く。上野毛のぼくのところは下り坂の途中なんで、環状八号から排気ガスが下ってくる場所だから、きれいとは思えないんだけど、やっぱり咲いた。それが九月の終りから十月初めころ、沈丁花から半年あとで匂いも同じ系列なんですよ。今年も空しく過ぎたという匂いなんだ、どちらの匂いも。沈丁花は昔からそう感じていたけれど、金木犀の匂いというのを初めてぼくは確認したわけだ、「空しく過ぎた」という気分を、一年に二回味わうことになってしまった。あの花の咲いている期間で、長いような短いような……。
空気のきれいなところに引っ越して、金木犀の花が咲く。その匂いに、「今年も空しく過ぎた」という気分を味わうというのは、一体どういうことだろう。
吉行淳之介は学生のころ、友人たちから「君は若死する」と言われていた。ある友人からは「君は空襲で死にそうな気がする」と言われ、ある友人からは「君は絶対四十までは生きられない」とまで言われたという。
それが、じつに私はいま四十五歳になってしまった。ところが実際にその年齢になってみると、「いったいどういう気分で生きているのか」と疑ったほどのことは何にもなくて、昔と対して違った気分でいるわけではない。相変らずばかばかしいことばかり考えて、日を送っているが、一つ明瞭な相違は、「死」というものが身近かに感じられることである。もちろん、戦争中は「死」はいつもすぐ傍にあったが、それは事故死の感じであり、また事故死の機会には今の時代に生きる人間は毎日豊富にめぐまれているわけだが、私の言うのは病気による死である。
(吉行淳之介「死とのすれ違い」『軽薄のすすめ』)
吉行淳之介は、20歳のときに召集されたものの、気管支喘息と診断され、すぐに帰郷している。そして戦後になってからも結核を患っている。同じく第三の新人の遠藤周作は、徴兵検査で第一乙種合格となったものの、肋膜炎によって入営しないまま終戦を迎えている。のちに戦後初の留学生で渡仏するが、結核を患って帰国を余儀なくされている。
「二十五歳までに死ぬものだと決めてかかっていた」という安岡章太郎は、昭和18(1943)年に徴兵検査を受け、甲種合格となる。しかし、胸部に疾患が見つかって入院する。その翌日に、安岡が所属していた部隊はフィリピンに移動し、レイテ戦で全滅している。25歳で終戦を迎え、鵠沼に暮らしていたところで脊椎カリエスを患い、寝たきりの生活を送る。彼らは戦争によって死を意識させられ、また病気によって死を意識せざるをえなかった。病で寝たきりの日々に、安岡章太郎は腹這いになって小説を書く。「悪い仲間」と「陰気な愉しみ」の2作で芥川賞を受賞するのは昭和28(1953)年の夏だ。
ひとくちに言うと、私たちは戦争で失った“生活”を回復したいと、いつも心の何処かで願っている。ところで、あの昭和二十七八年ごろは、日常生活の面で“戦前”がちょうど半分方もどり掛けている時期だった。それで私たちは、あとの半分の生活感情を演技でアナウメしていたと言える。私は吉行の家へ行く途中で一度、大森の駅前の露店じみた店でバナナを半房ぐらい買ったことがある。バナナは、その少し前まで貴重品だったが、それを無造作に買って新聞紙か何かに包ませて手に持つことが、私には何よりも愉快だったのだ。しかし吉行の家の玄関をあけると、頤から頭へタオルで頬かむりを逆さにしたような格好の細君が、ひどく不機嫌な顔をして坐っていた。
(安岡章太郎「黒きは猫の皮にして、白きは」『犬をえらばば』)
吉行の妻・文枝は昨晩から歯が痛く、機嫌を悪くしていた。それに気づいた安岡章太郎が早々に退散しようとすると、「奥方が妙な声を発して私の袖をひいた」。そちらに視線を向けると、「タオルでぐるぐる巻きにした顔に、バナナをくわえて何か言っている」。
「あれだ、あいつの歯痛なんて、バナナを見たとたんに治るんだから、心配いらん、ゆっくりして行け」
吉行が言うと、奥方はまたバナナを口に突っこんだまま、
「モウ、歯ァナオッタッタ……」
と、まるでタオルが口をきいたようなしゃべり方をしたので、三人とも笑い出し、私は言われるままに腰を下ろして居残った。……勿論このときの吉行の細君がやったことは大部分、演技だ。しかし、バナナで歯痛を忘れるというコントは、私たちの長い間遠ざかっていた生活を背景にしており、それがいま自分たちの中にかえってきたという満足感から、あのときの私たちは笑ったのだ。
一事が万事、こういう演技が、あのころの私たちには付いてまわった。まるで回復期の病人のように、私たちは自分の回復状態を自分でたしかめるために、日常生活のあらゆる場面でこうした演技が必要だった。(…)
(安岡章太郎「黒きは猫の皮にして、白きは」『犬をえらばば』)
生活感情を演技でアナウメする。
わたしたちの今の生活にも、そんなところがあるのだろうか。だとすればそれは、どんなところにあらわれているのだろう。何をアナウメしようとしているのだろう。
急な坂を下ってゆくと、正面にサービスエリアのような施設が見えてきた。そこは世田谷区立二子玉川公園で、正面に見えていたのはサービスエリアではなく、スターバックスコーヒーだ。
公園の隅に、白い自転車が駐輪されている。そこは「HELLO CYCLING」というシェアサイクルサービスのステーションで、スマートフォンにアプリをインストールし、会員登録すればすぐに自転車を借りることができて、どこのステーションにでも返却できるようだ。ステーションマップを検索すると、世田谷区だけでなく、都内各所に――さらには多摩川を越えた神奈川県内にも――無数にステーションがあるらしかった。せっかくなので自転車を借りて、多摩川沿いを走ってみることにする。電動アシストつきの自転車に乗るのは初めてだ。漕ぎ始めるときに加速がつくので、身体が置いて行かれそうになる。
二子玉川公園を出て北に進むと、すぐに大きなビルが見えてくる。二子玉川ライズだ。ぼくはここを一度だけ訪れたことがある。坪内祐三さんが聞き手となって常盤新平さんにインタビューがおこなわれることになり、構成担当としてぼくも取材に同行することになったのだ。そこではこんな言葉が交わされている。
坪内 常盤さんの九・一一に対する感想を、僕は読んだ記憶がないんですよ。
常盤 私は特に書いてないんです。
坪内 あのとき、空襲の記憶、トラウマを持っている人っていうのは、快哉を叫ぶわけじゃないけど、小林信彦さんとか種村季弘さんとか、ちょっと嬉しそうだったんです。それは単にビンラディン支持とか反米ではわけられない気がしました。
常盤 そういう点では、私は初めからアメリカ軍に対する親近感を持ってましたね(笑)。中学高校で軍事教練で教官にいじめられましたから。戦争が終わって、教練もなくなるし、電気もつけられるようになる、窓を開けてもよくなる……そのときの開放感といったら。だから、今でも八月十五日がくるたびに、ありがたいなあと思うんです。私は、アメリカ兵が憎いと思ったことはなかった。単純なのかもしれないですけれど。
(常盤新平「アメリカについての感慨」聞き手=坪内祐三『en-taxi』vol.17)
二子玉川ライズにある「維新號」でインタビューの収録がおこなわれたあと、外に出て写真撮影がおこなわれることになった。ゆっくり、ゆっくりと歩く常盤新平さんの後ろ姿を見つめながら、その日の対談でも言及された常盤新平さんの小説「遠いアメリカ」のことを思い返していた。
小説の舞台となるのは昭和30(1955)年の東京だ。主人公の重吉は、高田馬場に暮らしながら、大学院で英文学を学んでいる。ただし、大学院にはほとんど通っておらず、翻訳家になりたいと思いながら日々過ごしている。そんな重吉が、六本木の喫茶店で椙枝と待ち合わせるシーンが作品の序盤に描かれる。
「ねえ、ハンバーガーって知ってる?」
と重吉はコーヒーを啜るのをやめて、ふと思いついたように訊く。
「ハンバーグのことなの」
と椙枝は怪訝そうにまじまじと彼の顔を見る。
「いや、ハンバーガーだ。ゆうべ、探偵小説を読んでいたら、出てきた。私立探偵がロサンゼルス郊外のコーヒーショップでお昼にこいつを食べている。どんな食べ物だろうと、辞書を引いてみたら、ハンバーグ・ステーキとしか出ていない。どうも、ちがうような気がするんだ」
「ハンバーグの間違いじゃないかしら」
と椙枝は無邪気に言う。
「間違いじゃない。探偵がそのハンバーガーを一人で食べてるところが、なんだか侘しい感じがするんだ」
「牛肉のハンバーグだったら、私にはご馳走だけれど」
椙枝はくすりと笑い、またコーヒーを啜る。重吉も釣られたようにコーヒーを飲む。ラジオの音楽はいつのまにか「裸足の伯爵夫人に変わっている。
(常盤新平「遠いアメリカ」)
主人公の重吉は24歳、つまり昭和6(1931)年生まれだ。常盤新平さんも昭和6年生まれで、さきほどのインタビューで名前の挙がっていた小林信彦(昭和7年生まれ)や種村季弘(昭和8年生まれ)とほぼ同世代にあたる。その世代には「空襲の記憶があるから、国家としてのアメリカは嫌い」だけど、「ハリウッド映画やエルビスの音楽をはじめとするアメリカン・カルチャーは大好き」だという分裂があるのだと、坪内さんは語っていた。ただし、「こういう形でアメリカを話題にしても、八〇年代生まれ以降の人には伝わらないかもしれない」と。
マクドナルドが銀座に1号店をオープンするのは昭和46(1971)年。80年代生まれのぼくが物心つくころには片田舎にもマクドナルドはあって、ハンバーガーを知っていた。だから、重吉のように、ペイパーバックに書かれた「hamburger」という単語から、「これは一体どんな食べ物なのだろう」と遠いアメリカに胸を膨らませたことはなかった。
ハンバーガーといえば。
安岡章太郎は昭和35(1960)年、ロックフェラー財団の基金でアメリカに留学し、テネシー州に半年間滞在する。大正生まれの安岡にとって、アメリカはあこがれの国ではなかった。
アメリカにいる間、日本のことが好く思えてしかたがなかった。昼めし時、街を歩きながら、ふと「ザルそばを食いたい」と思った。五十円の「ザル」はアメリカの金にして十三セントぐらいであろうか、とにかく、十三セントで一応腹をみたしてくれる食堂は、アメリカ中をさがしてもみつかりそうもない。
学校の食堂で飲むコーヒーが一杯十セント、「ハンバーガー」と称する肉マンジュウみたいなものが一個十二セントだ。いま思えば一個十二セントのハンバーガーもなつかしくないこともないが、それだって一個二十五円のわが「中華マンジュウ」は、アメリカ製のハンバーガーと比べて、味も栄養価も勝るとも劣らないのである。(…)
(安岡章太郎「海の向こうの話」『やせがまんの思想』)
この『やせがまんの思想』という文庫本の中には、「なまけものの天国」と題したエッセイも収録されている。そこで安岡は、自身が小学生時代に暮らした青山南町を再訪しているが、そこは「全然別の町へ行ったと同じ」といえるほどに様変わりした。その原因は戦争を挟んで建物が変わったことで、昔ながらの日本家屋は姿を消し、目立つのは「白いペンキ塗りの柵や、金網などでかこった芝生の庭と、平らな屋根の別荘風のつくりの洋館」ばかりだった。それは青山南町に限らず、「私のいま住んでいる尾山台あたりも、博覧会的、サーカス的な住宅が立ち並んで、私自身の十二坪半の家もその小舎の一つである」と安岡は記す。
住宅は外観が「サーカス風」になっただけでなく、中身もずいぶん変わった。戦前であれば、「田園調布あたりには外国がえりの人たちの住むモダンな家」があり、そうした家では女中を雇うより「家事万端を電気にまかせるというのが、新しい文化生活」だとされていた。家電があるのはごく一部の裕福な家庭だけで、冷蔵庫も「いわゆるブルジョアの家には、よく置いてあった」。このように、洗濯機や冷蔵庫は「一部の特権階級の家でしか使われていなかったからこそ“神器”的な存在になれた」のではないかと安岡は指摘する。
終戦直後に普及した家電は電極式のパン焼き器だったという。そこからラジオが普及し、昭和30年代に入ると白黒テレビと洗濯機と冷蔵庫の「三種の神器」が普及し始める。経済白書に「もはや戦後ではない」と記されたのは昭和31(1956)年だ。
“戦後”という言葉のもつ意味がちがって来たのも、たぶんこのころからだったろう。それまでの“戦後”は敗戦後の略語であり、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ時代だった。私たちは半ば慢性的に年がら年中、空腹であり、口に入るものが眼の前にあれば、どんなものでもがつがつ食べたし、事実いま食べておかなければ、いつまた食べられなくなるかわからないといった世の中だった。……そんなように、夢中になって食べ物をアサっているうちに、悲惨な“戦後”からわたいたちは、いつともなしに、快復して行ったのである。そして気がついたときには、私たちの消費水準は戦前を上廻りはじめていた。
だが、そうなってからも私たちは、戦前よりも生活がらくになったなどとは思わなかったはずである。なぜなら戦前並みに消費水準が上がってきたといっても、それは数字の上だけのことで、型のうえでは決して“戦前”の私たちの身の廻りに戻ったわけではなかったからだ。
たとえば戦前には「貸家」とか、「貸間」の札は、東京の市内にも郊外にも、いたるところで目についたが、そんなものは戦後十年たっても、あらわれなかった。家や部屋を借りようとすれば、不動産屋の世話にならなければならず、敷金の他に権利金だの礼金だのというものを払わされた。
(安岡章太郎「“ヒマという牢獄”の電化生活」)
尾山台に立ち並ぶ家屋は、「サーカス的な住宅」ではなく、ごく一般的な住宅にしか見えなかった。その家の中には、冷蔵庫や洗濯機はもちろんのこと、さまざまな家電が並んでいるはずだ。昭和32(1957)年にはわずか2.8パーセントだった冷蔵庫の世帯普及率は、昭和46(1971)年には9割を超えている。昭和50年代以降はおおむね98パーセントで横ばいとなり、平成16(2004)年を最後に統計が取られなくなっている。
その統計を見ていると、今では完全に冷蔵庫は普及したように錯覚していたことに気づかされる。つまり、2004年の時点でも、全体の2パーセントは冷蔵庫のない世帯があったのだ。冷蔵庫の世帯普及率は、ぼくが生まれた1982年に99.5パーセントをピークにとして、その後はごくわずかに減少している。冷蔵庫があるのが当たり前の時代に、冷蔵庫のない世帯に暮らしている同級生もどこかにいたのだろう。そのことに、ほとんど無自覚に過ごしていたような気がする。
「うちの家族は、一回しか蟹を食べに行ったことがないんですよ」。あれは数日前、善通寺で過ごしていたとき、藤田君がそう切り出したことがある。藤田君は北海道出身ではあるけれど、記憶に残っている限りでは一度しか蟹を食べに行ったことがないのだ、と。
「たぶんきっと、北海道民は全員が蟹食べてるようなイメージってあるじゃないですか。でも、北海道民にとっても贅沢品だから、そんな普段から食べるわけでもないんだけど。ぼくの母さんは群馬出身で、北海道らしさみたいなものとは距離があったから、うちはそんなに蟹を食べに行ったことがなかったんですよね。だから価値がちょっと違う家だった気がするんだけど、小学生のとき、月曜日に学校に行くと、『日曜日に何食べた?』って聞いてくる先生がいて、それがいまだにトラウマなんですよね。嬉しそうに『蟹!』とか言う子もいるんだけど、これといったものを食べていない子はどういう気持ちでいるんだろうってヒヤヒヤしたんです。教科書とかでも、『カレーライスの匂いが漂ってくると、母のことを思い出す』みたいに書いてあったりするけど、どういう神経でそんな文章が書けるのかなって思ってたんです。お母さんにカレーライスなんて作ってもらえなかったこどもだっているのになって」
そんな言葉を思い返しながら、自転車をこぐ。
東急東横線と国道246号線の高架をくぐり、川の流れを遡るように進んでゆく。河川敷では草刈りが行われているところで、刈られた草の発する匂いが流れてくる。そこにはサッカーコートがあり、野球場がある。多摩川沿いを走っていると、無数に野球場がある。休日にスポーツを楽しむ人がそんなにいるのかと驚かされる。最初はただの河川敷だった場所を「運動場として整備しよう」と思い立ったのは誰だったのだろう。
藤田君はぐんぐん自転車をこいでゆく。気づけば背中も見えなくなった。ぼくは写真を撮りながらのんびり進んでゆくと、しばらく走ったところで藤田君は自転車をとめ、川を眺めていた。視線の先には堰がある。よほど激しい雨が降ったのだろうか、大きな樹が2本漂着していた。多摩川沿いには、運動場として整備されている場所もたくさんあるけれど、鬱蒼と樹木が生い茂った場所もある。「ああいうところで、もし人が殺されていたとしても、誰も気づかないよね」と藤田君が言う。
「生きるのも死ぬのも等価だって、最近すごく思うんですよね」。藤田君がそう切り出したのは、城崎で滞在していた施設のキッチンだった。「生きるって判断をすることも、死ぬっていう判断をすることも、同じだと思ってるんですよね。人間という動物は、死ぬって選択もできる機能をもって生まれているわけだから。社会というシステムの中では、『それを選択すると迷惑がかかる』とか、「悲しむ人がいる」とかってことになっているけど、そのハードルを下げるなら、生きるも死ぬも等価だと思う」
死んでしまったとしても、頭の中では何度だって会えるんだから、何度だって出会いに行けばいいと思う。頭の中では、何度だってその場面をやり直せるんだよ。藤田君はそんなことも話していた。近しい誰かに死なれたら、ぼくはどんなことを思うだろう。
多摩川を遡ると、小田急線の高架があって、さらに進むと京王線の高架が見えてくる。小田急線の新宿駅も、京王線の新宿駅も歩いて数分で行き来できるのに、ここではずいぶん離れている。その距離に、郊外の広がりを実感する。
第三の新人に分類される作家たちは、多摩川沿いに暮らしていた作家たちが数多くいる。安岡章太郎は、第三の新人の作家の中でも長く生きた作家だ。エッセイの中で安岡は、「本当のことをいうと私はいままで、死にそうでいてなかなか死なないのが人間だ、と思っていた」と書いている。
じつのところ私は、二十歳のころには二十五歳までに死ぬものだと決めてかかっていた。当時は戦争中だったから大抵の連中がそう考えていたはずだ。兵隊から帰って、脊椎カリエスで寝ていたころは、やはり「戦争」の延長戦をやっている感じだった。敵に一発ホーム・ランが出ればサヨナラ・ゲームになるように、明日のことはどうなるかわからぬ気持で、暮らしてきた。これなら、どうやら四十までは生きられそうだ、と思うようになったのは、三十過ぎて、自分の書いたものがポツポツ売れはじめてからである。
まったく、二十歳のころは誰が死んでも驚かなかったし、人が死ぬたびにいちいち驚いてはいられないほど、よく死んだ。私の中学の同級生のうち、三分の一は終戦までに死んでいる。学業中途で兵役にとられ、戦後、大学へ復学したのはクラスの半分もいなかった。(…)二十代前半までの友達のおよそ半数は、戦争を境目にどこかへ消えてしまったのである。
しかるに三十過ぎて、そろそろ「戦後」はもう終った、などと言われるようになってからは、自分だけではなく、まわりの誰もが死にそうでいて、なかなか死ななくなった。吉行にしても、遠藤にしても、肺に穴がいっぱいあいたり、片肺全然なくなったりして、戦前の医学では到底、助かりっこないはずである。(…)
このエッセイのタイトルは「練馬大王 梅崎春生の死」だ。梅崎が吐血して入院し、ほとんど意識をうしなっている。安岡はそれを遠藤周作の電話で知る。その電話はイタズラ電話ではなく、梅崎春生はほんとうに入院していた。病院に駆けつけると、廊下の椅子に遠藤周作が腰掛けていた。
「もう、だめかね」
ときくと、遠藤は黙ってウナずいたまま、うつ向いた。しばらくたって顔を上げると、
「だけどなア、人間は誰でも死ぬもんだぜ」
と自分自身に言いきかせるように話し掛けてきた。
「おれたちも、やがてはみんな死ぬ。誰が一番まっさきに死ぬかということより、おれはひとり欠け、ふたり欠けして、とうとう最後に仲間のなかで、二人だけ生き残ったときのことを考えていたんだよ……。『おい、ついにオレとお前と二人だけになってしまったんだな』と言いながら、おたがいに今度は、どっちが先に死ぬんだろう、と顔を見合せる。そんなことになったら、さぞヤリ切れん気持だろうなア。……しかも、いつかはそういうことになる日が来るにきまっているんだからな」
こう綴っていた安岡章太郎が亡くなったのは2013年だ。享年92、第三の新人の中でもかなりの長寿だ。没後半年が経つころに、単行本に収録されていなかった安岡の文章や座談をまとめた本が新潮社から出版された。タイトルは『文士の友情』。巻頭に収録されているのは、「吉行淳之介の事」と題した文章である。書き出しはこうだ。
あれは平成五年、夏の初めに井伏鱒二さんが亡くなって、まだいくらもたたない頃だ。朝の十時過ぎ、窓の下の道傍から、「オーイ、オーイ」と呼ぶ声がする。
あの変な胴間声は吉行だな、とすぐに分った。それにしても普段は痩せ浪人、それがいかにも嫋々として入谷の直侍的雰囲気を醸し出すのに、声だけはホラ穴から叫ぶように響くのは甚だ艶消しだ。しかし何にしても、この十年余り、医者や病院に行く以外には殆ど外出していないと聞いている吉行が、こんな時刻に私の家にやってくるとは懐かしかった。
「オーイ、オーイ」の声は、まだつづいていたが、私が階段を駆け下りると、吉行は家人と何やら話しながら部屋に上ってきた。久し振りに見る吉行は、顔色はよく、痩せてはいるが、具合の悪そうなところは全く見えない。そう言えば、この間「新潮」に井伏さんの追悼文を書いていたが、そんなものも吉行はここ暫く発表していなかった。つまり彼は、実際に余程具合がいいに違いない。
ここで言及されている「井伏さんの追悼文」というのは、『新潮』(平成5[1993]年9月号)に掲載された「井伏さんを偲ぶ」だ。この年の月に吉行は肝臓癌と診断されていたが、まだ本人には知らされていなかった。翌年の7月上旬に医師から病名の告知を受け、それからひと月と経たないうちに亡くなっている。「井伏さんを偲ぶ」が、吉行の絶筆となった。
安岡章太郎による「吉行淳之介の事」は、平成9(1997)年に刊行が始まった『吉行淳之介全集』の月報として書かれたものだ。この文章を書いているとき、安岡章太郎はどんなふうに当時の記憶を思い返していたのだろう。