京王多摩川駅には臨時口がある。一ヶ月前に通りかかったときには閉鎖されていたけれど、今日はシャッターが上げられている。臨時口からはき出されてくる人たちは、ゆっくりした足取りではあるのだけれど、どこか気忙しそうに見える。誰かと連れ立って歩いている人は見当たらず、ほとんどの人がひとりきりだ。そして、一様に落ち着いた色のジャンパーを羽織っている。そんな人波の中を、あざやかな青色の服を身にまとった藤田君が歩いてくる。
京王閣には一度だけ入場したことがある。東京蚤の市に友人の古本屋さんたちが出店するというので、遊びに出かけたのだ。しかし、競輪が開催されている期間に入場するのは今日が初めてだ。そもそも競輪を観戦するのも今日が初めてである。
入場ゲートをくぐると、新聞スタンドが2つ並んでいる。左は『青競』、右は『赤競』を売っている。何が違うのかわからないけれど、ぼくは『赤競』を買う。藤田君はせっかくだからと両方買っていた。メインスタンドに向かうと、「京王閣開設71周年記念ゴールドカップレース」と看板が出ている。
競輪が始まったのは昭和23(1948)年のこと。創設の立役者となったのは、有楽町に小さな事務所を構えていた国際スポーツ株式会社だ。大陸や南方からの引き揚げ者のために「住宅建設宝くじ」を構想していた海老澤清と、湘南海岸にスポーツと観光によるレジャーランド「国際公都」の開設を夢見ていた倉茂貞助が立ち上げた会社である。ふたりは戦前から行われていた自転車競技を賭けの対象とし、その収益金を戦後復興に役立てることはできないかと考え、「報奨金制度併用による自転車競走」を考案する。ふたりは当時の片山哲首相の腹心と呼ばれた社会党の代議士・林大作に相談をもちかける。その趣意に賛同した林大作が首相に提案すると、「国民生活が暗くなるような法律ばかり上程されているときに、そんな明るい法律が議員提出で成立することは誠に微笑ましい」と首相も賛意を示し、自転車競技法が成立する。
この法案の審議過程に目を光らせていたのが、当時の小倉市長・浜田良祐だ。昭和21(1946)年に小倉市長に就任した浜田良祐は、財政の立て直しに追われていた。軍都である小倉は米軍の空襲だけでなく、強制疎開によって多くの建物が取り壊されており、復興には膨大な資金が必要とされた。しかし、市税は入ってこず、職員の給料も支払えない有様で、「大博打を打ってやれ」と競輪開催地に名乗りを上げた。
昭和23(1948)年11月20日、「ただいまから日本で初めての競輪を挙行します」という宣誓とともに、日本で初めてとなる競輪が開催された。はたして競輪に観客が集まるのか。選手たちですら半信半疑のまま小倉競輪場に足を運んだ。そこには観客が次から次へと押しかけており、「競輪場行き」と書かれた紙を張ったバスが行き交い、競技場も最寄り駅も黒山の人だかりができた。当時は石炭産業が全盛の時代であり、近くの炭鉱で働く労働者がキャップランプをつけて競輪場に詰めかけたという。競輪の売り上げは、その4パーセントが施行者――ここでは小倉市――の収益となる。競輪という金の卵に多くの自治体が飛びつき、わずか5年のあいだに63もの競輪場が開設されている。京王閣もそのひとつだ。
「この佐藤さんって選手、東白川の人だ」。競輪新聞を読みながら藤田君が言う。出走表には選手の名前や年齢や出身地、所属する競輪場、最近の成績や走法、ベストタイムが書かれている。
「小倉とか豊橋とか大宮にも競輪場があるんだね」
「あ、熊本の人もいる。この人に賭けてみようかな」
「そういう賭け方じゃ絶対当たんないよね」
見慣れぬ出走表を眺めていると、音楽が流れ、場内に実況が流れ出す。選手がバンクに姿をあらわすと、観衆がとととっとフェンス際に詰めかけ、激励の声を飛ばす。選手たちはすうっとバンクをまわると、向正面の建物に消えてゆく。それを見届けると、観衆もまた投票所のある屋内に戻ってゆく。
「今のこれを見て、レースを見極めるんですかね?」
「どうなんですかね。何を見ればいいのか、さっぱりわからなかったですね」
「馬とちょっと違いますよね。競馬だとパドックが大事って話をよく聞くけど」
「馬の場合は毛ヅヤだとか、汗だとか、気合の入りかたを確認するっていうけど、何を見ればよかったんだろう?」
勝手がわからず、第1レースは様子を見ることにした。レースが始まる10分前には、コース上にスタート台が設置される。観客にいちばん近い場所がスタート地点になるのかと驚く。どこかでカラスが鳴いている。小鳥のさえずりも聴こえる。京王線が踏切を越えてゆくのが見える。のどかな時間が流れていたところに、投票締め切り時刻が迫ると、プルルルルと慌ただしい音が響きだす。カウントダウンが終わると、スタンドに観衆が詰めかけてくる。発走まで3分を切り、選手たちはスタート台に自転車を設置する。頑張れ、兼士! 元気出して行こう! 負けたら家に帰さないぞ!――観衆は思い思いに声援を飛ばす。
かけ声と共に号砲が響き、レースが始まる。お互いの位置どりを探るように、ゆるゆると自転車が進みだす。やがて選手たちは一列になり、バンクを周回していく。4周したところで鐘が鳴り、選手たちが目まぐるしくポジション争いをする。観客から怒号に近い声援が飛ぶ。ピンク色の選手が先頭のまま最終コーナーをまわり、いよいよゴールとなったところで、「パン!」と破裂音が聴こえた。目の前で何が起きたのか、すぐには理解が追いつかなかった。選手たちが走り抜けたあと、ピンク色の選手がうずくまっている姿を見て、事故が起きて落車してしまったのだと気づく。競輪のスピードは最速で70キロにも達するという。その衝撃に、しばらく呆然としながらも、何年も前に競輪をテーマとした小説を読んだことを思い出した。能島廉の「競輪必勝法」である。
小説の主人公は、東京大学を卒業後、児童雑誌の出版社で働いている。主人公の従兄弟にあたる橋本良雄は、予科練帰りでぶらぶらしていたが、やがて競輪選手となった。主人公は正月休みに郷里の高知に帰省し、「小学校の同級生がマダムをしているバー」で良雄と偶然再会する。ふたりは小さい頃に会ったきりだったが、ひと目見てお互いに気づく。
「帰ってきてることは、聞いて知っちょった。いつまでいる。」
「五年ぶりかな。元日には、うちへも寄ると思うとった。」
「酒飲みの競輪選手じゃ、親戚のうちでも、良い顔されんきに。」
あらためて、顔を見なおしてみると、頬はこけ、目はくぼんでいるが、唇の薄い口許は、そのままだった。目許から頬にかけて、傷痕で、黒ずんでいた。
「顔は、どうしたね」
「観音寺で、転んで、擦った。鎖骨を折らんで、しやわせやった。」
「名誉の負傷やな。」
話していて、何か隔てるものがあった。子供の頃、一緒に魚つりや泳ぎに行ったような具合に行かないことは、わかっているが、それだけでない、何かが、あった。私の方には、対手が競輪選手であるというだけで、優者の遠慮のようなものがあった。良雄の方は、それを感じて、鬱陶しそうだった。酒をコップで、ぐいぐい飲んだ。
(能島廉「競輪必勝法」)
競輪選手となった良雄は、C級からすぐにA級まで特進し、地元の代表として競輪ダービーにも参加した。しかし、結婚して大酒飲みになり、練習もろくにしなくなってしまう。実家から届いた手紙には、良雄は「鼻つまみの選手になった」と書かれており、親戚からも疫病神のように扱われていることが窺いしれた。
こどものころは大人しかった良雄がそんなことになってしまったのは、「競輪選手というものは、まわりがまわりだから、こうなってしまうものか」と主人公は想像する。そうやって競輪にどこか侮蔑的な視線を向けていた主人公だったが、会社に入って3年目の秋、知り合いに連れられて大宮の競輪場に出かける。それを機に「暇つぶしに競輪へ行くことをおぼえた」。
競輪は、やればやる程面白かった。選手の一人一人の名前と、出身地と、脚質と、上りのハロン・タイムを憶え、さらに見たことのある一つ一つのレース展開を頭の中へ叩きこみ、次の車券戦術の参考にしたが、たとえ同じ九人の選手が走ったとしても同じようなレース展開には決してならないだろう。実に、千変万化、つかみどころがなかった。たまに適中して、三百円でも取れば、それは決して偶然の幸運の結果ではなく、私の日頃の研究と適確なる決断の賜であったし、取られれば取られたで、八百長ではないかと疑い、負けた選手の弱さと、レース勘の鈍さを恨み、レース展開に対する自分の読みの不足を悔んで、迷いに迷い、その迷いの前には、あらゆる思慮分別というものは、実に無力であった。そして、全レースが終り、はじめて我にかえってみると、やり場のない憤懣に口をへの字にまげ、はずれ車券とよれよれになった予想新聞が砂塵に巻く中を、踵のちびた靴をひきずって帰っているのであった。
(能島廉「競輪必勝法」)
あるとき、良雄が四国から関東に遠征にやってくる。残業が続き、競輪どころではなかったにもかかわらず、主人公は仕事を放り出して松戸競輪場に向かう。レースの前にバンクを周回する良雄に、主人公は「ヨシオ、がんばれ」と声をかけると、「良雄が、ぎょっとしたように、スタンドを見た。はるばる関東まで来て、スタンドから声がかかるとは意外だったのだろう」。その声援が届いたのか、良雄は一着となり、主人公の予想は見事に的中する。レース後、ふたりは東京駅の近所で酒を飲み交わす。主人公が競輪をやっていると知り、親身に感じたのか、良雄は打ち明けた話を始める。
「――実は、俺、競輪を止めようと思っている。飯の種だからと思いきかしてはいるが、考えてもごらん、大の男が、自転車のペダルを目の色変えて踏んで、何にもない磨鉢の底をグルグル回って、一体、何になるんだろう。タイヤ差だ、八分の一車輪差だ、逃げだ、追い込みだと騒いだところで、ねえ、これが男一匹、一生をかける仕事だろうか。あげくの果、ちょっと観客の思惑にはずれた乗り方をすりゃ、馬鹿野郎と呶鳴られ、役員からは、八百長じゃないかと、詮索の白眼で見られ、おれは、仕事をまちがえたと、つくづく思う」
そう語りながらも、「現実に、おれにできることと言っては、やはり競輪しかないんだ」と、良雄は自分に言い聞かせるように語る。会社で不本意な仕事をおしつけられて腐っていた主人公は、その気持ちがわかるような気がした。そして主人公は、平日にも会社を抜け出し、競輪にのめり込んでゆく。次に良雄と会ったとき、「あいかわらず、毎日、競輪やってるの」と声をかけられた主人公は、「おれの体にはもう競輪場の匂いが染みこんでしまったのだろうか、それで、すぐにこんな質問を受けるのだと、省みて、狼狽した」。
その日、良雄は主人公に「もう一花、咲かそうと思うとる」切り出した。それは練習に打ち込もうという話ではなく、八百長で大いに稼ぎまくってやろうという話だった。飲み代ほしさに八百長に手を出した良雄は、振興会から睨まれ、地元の高知競輪でも走れなくなった。それでもどうにか再起を目指していたある日、主人公は新聞の競馬競輪欄に良雄の名前を見つける。そこには「橋本良雄(三十三歳)が高知競輪に於て転倒落車、頭蓋骨骨折のため死亡」と書かれていた。「タイトルなしの四行で片づけられていた」ため、「少しも壮烈悲惨な感じがしなかった」。
主人公の弟から送られてきた手紙によれば、人生最後となったレースで良雄は「目をみはるほどの素晴らしさ」で他の選手たちをごぼう抜きにしたものの、「さばき切れない程のスピード」のせいで自転車が逆さになって飛び上がり、良雄は地面に叩きつけられ、そこに後続の車が乗り上げてしまったのだという。傾斜にそって血が流れ出し、担架で運ばれていくと、「息をのんでいた観衆が、ほっと気をとりなおして、相当いかれたのおと、話し合いました」と、弟からの手紙には書かれていた。
母からも手紙が来た。
『……良雄の葬式も、選手会葬で、盛大に終りました。お前に弔辞を読んでもらえたらと言っていましたが、お前も忙しいことだし、わざわざ東京から来ることもないので、ことわりました。やっと、片づいたとこで、高知競輪初まって以来の事故ですから、振興会から、選手会から、退職金、手当、お見舞、香典やらが、どっさり来て、全部で三百五十万円くらいになったそうです。借金を払っても、まだアパートを建てる金は残るそうです。こんなことを言って、いけないことですが、良雄もいい時に死にました。良雄は今年一杯で、選手を馘になるはずだったのです。馘になってごらん。一文も貰えず、借金が残るだけです。そして、また女房子供を泣かすことでしょう。ほんとに、いい死に時でした。加寿子さんも、本心は、ほっとしていることでしょう……。』
ひどいことを言いやがると思った。これが世間の目だと、恐ろしく思った。
「おれも生命保険へでも入るか。良雄が三百五十万円なら、おれは五百万だ。」と思った。
(能島廉「競輪必勝法」)
この小説を初めて読んだのは、今からちょうど十年前だ。
ほとんど記憶から忘れてしまっていたのに、破裂音を耳にした瞬間に、その記憶がよみがえってきた。最初のうちはどよめいていた観衆たちも、次のレースの発売を知らせるアナウンスが流れると、潮が引くように姿を消してゆく。それでもひとりだけ、フェンス際に残っている男の姿があった。だいじょうぶか、おい。だいじょうぶか、齋藤。男は何度となく声をかけていた。
20分後には、もう次のレースの投票締め切り時刻がやってきてしまう。
スタンドを離れ、場内にある「まくりや」という店に入る。テーブル席には割り箸や爪楊枝、醤油や中濃ソースと並んで投票カードが置かれている。生ビールを飲みながら牛すじカレーを頬張り、『赤競』を熟読しする。そこにはレースの展開予想も書かれているけれど、どんなに熟読しても、何を手がかりに予想を立てればよいのかわからなかった。さきほどのレースは1着が5番、2着が7番だった。5番は◎が、7番は○印がついていた選手だ。競輪は案外予想が順当に当たるものなのだろうか。◎がついている7番の選手を軸に3口賭け、「まくりや」でビールを飲みながらモニターで2レースを見守る。そこには正面から選手たちを捉えた映像も映し出されている。そのアングルから見ると、選手たちの乗る自転車は突風で煽られているかのように左右に揺れている。実際には風で揺れているのではなく、コース取りの駆け引きをするために車体を常に揺らしているのだろう。さきほど目の前でおこなわれていたレースでも、こんな駆け引きが繰り広げられていたのだろう。それは、スタンドからの視点では見えなかった世界だ。
予想は外れた。7番の選手は3着に沈み、▲印の選手が1着に、無印の選手が2着という結果になった。何を頼りに予想を立てればよいのか、いよいよわからなくなってくる。
次の第3レースは「ルーキー企画レース」で、出場する選手は皆、今年になって本デビューを果たした若者ばかりだ。『赤競』には「レース短評」として短いコメントが掲載されている。「スター候補生」。「レース巧者だ」。「養成所は一位」。そんな言葉に混じり、「目標得て怖い」という短評があった。どんな目標なのかは新聞には書かれていないけれど、人間に賭けるのだと思うと、「スター候補生」よりも「目標得て怖い」に賭けたくなる。
早々に車券を購入し、2杯目の生ビールを飲みながら周囲を見渡す。ほとんど全員が手元の出走表に視線を落としている。ここでは誰もが次のレースの予想に没頭していて、まわりの様子を窺っている人の姿は見当たらなかった。
考えてみれば、競輪は孤独なものだ。これだけ大勢の人が肱と肱をこすり合わせていながら、誰も隣りの人には、いささかの関心もなく、ただひたすらに、自分の思惑に没頭し、人を突きとばし、突きとばされても、あの野郎何を買うつもりかなと穴場の札を見上げるぐらいで、百円玉をパチンコの玉の如くに穴場にほうり込み、買った車券が当たれば、ひとりでニヤッとし、思ったよりも高い配当がつけば、ホウついたなとひとりで躍る胸をおさえ、はずれれば、ひとりで唇を噛みしめて、プイと横を向いて、チェッと言うのであった。そして、その歓喜も悲しみも、外からは、うかがうべくもなかった。それは、あくまで、自分一人のものなのである。
(能島廉「競輪必勝法」)
パチンコといえば、吉行淳之介は「パチンコ雑話」というエッセイを書いている。
上野毛に住み始めた吉行は、ずっと病気がちだったけれど、このエッセイを執筆した年に入ってからはぶらりと散歩という気分が起こるようになり、坂道を登ってパチンコ屋に出かけるようになったのだという。吉行とパチンコは「敗戦以来の深い縁である」。戦後混乱期は手持ちのお金も少なく、「パチンコ台に向うときはなんとかして儲けようという気持があった」。今ではその感覚は希薄になったものの、「終始変らないことがある」。
それは、自分一人だけになれる場所、というものを求めている気分である。まわりが玉の出る音と店内を流れる音楽で喧騒をきわめているが、人声はほとんど聞えてこない。これがいいので、私のような都会育ちの人間には、いささか気取っていえば、「雑踏の中の孤独」とでもいうものを手に入れることができる。このごろでは、連発式が復活して片手で操作できるので、盤面にたえず飛び散っているたくさんの玉を漠然として眺めている。その玉が穴に入ってチューリップが開いたりする瞬間は見届けるにしても、漠然とした物思いに捉われながら、玉を打っている。
吉行淳之介「パチンコ雑話」
日本で最初のパチンコ店が名古屋で開業したのは昭和5(1930)年だ。しかし、戦時特例法によりパチンコ店の新規開店が規制され、太平洋戦争が始まるとパチンコは「不要不急産業」として全面禁止となり、台も処分されてしまう。戦後になって復活したパチンコは、急速に日本各地に広がってゆく。『昭和二万日の全記録』という、図鑑のような本を紐解くと、昭和23(1948)年の出来事の中に、「大衆娯楽、競輪とパチンコ」という記事がある。そこで競輪とパチンコは、「欲と珍しさ」を刺激する「公認賭博場」として賑わったのだと書かれている。
昭和23年というのは、どんな時代だったのだろう。『昭和二万日の全記録』には、この年に起きた出来事や、メディアで報じられた出来事が網羅されている。この年の正月の様子を、『北海タイムス』はこんなふうに報じていたと記されている。
好天に恵まれた北海道の正月は、各地とも街の盛り場は人出でにぎわった。しかし人々の服装はおおかたちぐはぐで、正月の盛装とはいえなかった。どこの家庭でも、せめて子どもだけは正月の装いを新調してやりたいと望んだのだろうが、たいていはふだん着でがまんさせるより仕方がなかった。衣類さえこの有様、住居に手がまわらないのは当然で、一般の家庭では畳もふすまも障子も何年も使ったためにいたみはてていた。そのため正月といっても部屋のなかが雑然としたままのところが多く、戸外の雪かきもこの冬はあまり励行されていなかった(『北海タイムス』一月九日付)。
終戦から3年を数えても、国民生活は苦しいままだった。
この時期、極東委員会は「日本に許される生活水準」を規定している。日本の生活水準を被侵略国より低く抑えることで、賠償問題を有利に導く意図から規定されたもので、昭和5年から9年ごろの水準が「日本人に許される生活水準」とされた。「住」に関しては「一人当たり三畳」が基準だったという。ただし、昭和22(1947)年末における日本人の実際の生活水準は、一人当たり0.9畳だったという。
一人当たり1畳足らずの生活水準に生活しながら、パチンコで景品獲得を狙い、競輪で一攫千金を夢見る。その感覚というのは、今では想像するのも難しくなってしまった。
敗戦後、室を借りることはむずかしい。特に権利金なしの室を借りることはむずかしい。しかしながら室がなくてはわたし達は結婚生活をすることが出来ない。
わたし達は室さえあれば結婚出来るというところまで行っていた。つまり、わたしは彼女を愛し、彼女はわたしを愛していたということになるのだが、愛するという言葉の意味がわたしには判らなかった。すると彼女も愛するという言葉の意味が判らなくなってしまったが、世間では普通こういうことを愛すると言っているのだ。わたしと彼女は同じところに住み、同じ床に抱き合って寝たかった。この要求の点で二人は一致した。相手を出来るだけ気持よく(あえて幸福といわないのは、幸福という言葉の意味もよく判らないからである)したいという要求も一致した。気持よくとは物質的にも精神的にも痛いことや苦しいことやつらいことを除くことである。これらの一致の上で、大いに協力して自分の身近のところから安楽をおしひろげて行こうということも一致した。何に向ってか。世界に向ってである。
富士正晴の小説に、こんな一節があったことを思い出す。この小説というのは、昭和29(1954)年の『新日本文學』に掲載された「競輪」である。
先に引いた「競輪必勝法」を読んだのは『en-taxi』という雑誌がきっかけだったけれど、こちらの「競輪」を読んだきっかけになったのも『en-taxi』だ。読んだというより、「タイプした」といったほうが正確だ。この「競輪」が再録されるにあたり、ぼくは図書館で初出の誌面を確認して、それを文字に起こしたのだ。
「競輪」は不思議な小説だった。それは「小説というかエッセイというかまさに散文と呼ぶべき作品」と紹介されていたけれど、まさにそんな言葉がぴったりくる作品だった。「競輪」はこんなふうにして書き始められている。
或日、わたしはNHKの街頭録音の放送を聞いた。街頭録音とか、放送討論会とかは家にひきこもりがちで、どうしても世間にうとくなり易いわたしのような人間にとって現実の風に一吹き吹かれる有難い番組と言ってよい。それは官僚の側に立つマス・コミュニケーションであるに相違ないだろうが、民間放送のコミュニケーションより、時々より自由であり、より大胆である場合がある。このことは日本の社会の成り立ちの一つの象徴であるようで大変面白い。或いは官僚よりもより強力なブルジョワジイの圧力に対する一種の官僚の側からの衝動的抵抗と見ることが出来るのかも知れない。ブルジョワジイと官僚との複雑な相互関係についての分析はわたしのような単純無学な人間の手に余るからこれはその方の専門家に任せるとしよう。わたしはただ街頭録音や放送討論会を聞く度ごとに、今の日本に腹を立てたり、情けなくなったりするのが有難いというだけのことであり、或日の宝くじ・競輪・競馬・パチンコなどについての街頭録音を聞いてひどくむかむかしたということと、その具体的理由をここで述べればそれで良いのである。但し、喋ったら気が済むというわけではない。喋って印刷して残し、その腹立たしさ憤ろしさを忘れないように、忘れそうになったらいつでも読みかえして再現出来るように、そしてわたしのその気持を人々のこころにも点火させたいために書くわけである。人々に気持よい思いをさせようと言う気はない。又、小説であるという芸術であろうとする慾望もまあ無いだろう。
その日の街頭録音で、アナウンサーは道ゆく人に「宝くじ・競輪・競馬・パチンコのたぐいは有った方が良いと思いますか、無くした方が良いと思いますか」と尋ねた。その質問に、ある女学生は「国民に夢を抱かすという意味で有っても良いと思います」と答えた。その言葉に、富士正晴は「小ざかしい日本人の知恵」を感じとり、腹を立てる。
宝くじ・競輪・競馬・パチンコは有って良いか。バクチで身を亡ぼすたあ、亡ぼすやつがしっかりしてないからだという議論もある。(…)わたしはそのしっかりしてない人間を同じ家に住んで一シーズン眺め暮らして苦痛だった。たしかに崩れた、しっかりしてない、いい加減な小悪党であったが、子供みたいに善良でもあった。しっかりしてない人間が亡びるのは当然だと見ているのは、見とおしの利かぬカーヴで汽車や電車にはねとばされる子供を当然だと見ているような気が、わたしにはする。そしてまた自由党の政談演説は実にこのしっかりしてない奴に呼びかける呼びかけ方が巧みだという気がわたしにはする。
この小説に登場する「わたし」は、結婚生活をスタートさせるべく、父親の部下の家に間借りすることになった。その部下というのは、工場のボイラー焚きで、名前を「秀さん」といった。秀さんの勤務態度は真面目とは言えず、「工場の機械を持ち出して売った」だとか、「無断欠勤しては野菜や米の闇屋をやっている」だとか、とかく噂のある男だった。しかし、「昭和二十三、四年という頃は、勤め先のものを盗み出して使ったり売ったりすることは、今更盗みというのが照れくさい位の日常茶飯事」であり、「わたし」は気にせず秀さんの家を間借りすることに決めた。
屋根裏に暮らし始めてしばらく経ったある日、父から「わたし」に電話がかかってくる。秀さんが無断欠勤を続けており、今は自分のところで話を止めているけれど、このままだとクビを切らなければならなくなるのだと父は言った。「わたし」が秀さんにそのことを伝えると、「月給一万五千円、へ! 何や一万五千円位くれやがって。あほらしいて真面目に働けるか」と秀さんは啖呵を切る。彼はどこへ行っても勤めが長く続かず、「短い線が切れたところから次の短い線が出るという風な生活」だった。
秀さんは工場を辞めてしまい、自宅を改装して小さな八百屋を始める。しかし、そこは他の商店から離れたぽつんとした立地であるうえに、5分も歩けば商店街に出あられるということもあり、いくら贔屓目にみても成功するとは思えなかった。秀さんは「これだけ利益を得るためにはこれだけ買い込まなければならないという計算だけ」で商品を仕入れており、売れ残った野菜たちは腐ってゆく。八百屋に見切りをつけた秀さんは、今度はひよこを五十羽仕入れてきて、急ごしらえの鶏小屋で飼育を始めたが、狭い鶏小屋に押し込まれたひよこは全滅してしまう。「何ぞ、ぼろいもうけ仕事はありませんかな」と、秀さんは口癖のように言い、畳表の商売に手を出す。統制の対象とされている畳表を、闇で販売し始めたのだ。それが警察の知るところとなり、秀さんはあやうく逮捕されかける。それをきっかけに秀さんは心を入れ替えて、「日中酒を飲むのを急に止めた。秀さんは秀さんなりに生活を立て直そうと、今になって思いはじめているようであった」。しかし、そんな日々も長くは続かなかった。
或る夜、タクシーが玄関にとまった。さわがしく秀さんが奥さんを呼ぶ声がした。
「おい、見てみい、これ、これ皆百円札やど。ほれ、ここにも。ここにも。ここにも。や、運転手さん大きに。酒のんで行きまへんか。あきまへんか。そんなら、へい、大きに」
秀さんはドカドカと上って来た。
「よう、先生。やってはりますな。夜おそうまで勉強でっか。今夜はやめなはれ。飲みましょうや、わあっと。金ありまっせ。いつも煙草代おかりして。これ煙草代だ。おかえししまっさ。今日はな、大穴だ。大穴でっせ。ああ、気色ようおましたで。競輪はカンだんな。カン一つだ。わてはついてまっせ。三十万円位ぼろくそや。親のたててくれた家手放してたまるかい。ははは。草葉の蔭で、おとうちゃんが泣きまんが。ようし、おれはかせいだるぞ。や、お邪魔さん。勉強すんだらほんまに下りて来なはれや。飲みましょう」そして、「おい、かかあ、酒じゃ、酒こうてこい」というと、百円札の束を片手に握ったまま、ドカドカドカところぶように下りて行った。わたしは酒をのみに下りては行かなかった。
それから秀さんは大っぴらに競輪通いを始める。「自分が面白いから、奥さんもアキ子ちゃんも面白いだろうと思い、一家揃って競輪に行くのだった」。たまには大穴を当ててて自動車で帰ってくる日もあったが、「大抵はベロベロになった秀さんを抱えるようにして、疲れ切って奥さんは帰って来た」。その様子を見るのは「悲惨で全く憂鬱で」、「わたし」は屋根裏部屋での生活を終わらせる。それから「わたし」は、秀さんとは一度も顔を合わせなかったが、噂によると「秀さんがだんだん生活落伍者になって行っていることが察しられた」。
ある日の夕方、古本屋をひやかしてからバスの停留所に向かった「わたし」は、「思いもかけず、秀さんの奥さんに出会った」。秀さんの妻は、「見すぼらしい柄もわからぬような着物を着、大きくなったアキ子ちゃんを帯で背負い、古ぼけた買物かごを下げ」ており、生活に疲れた様子で「とぼとぼと夕陽を浴びて歩いているのだった」。その姿に、「わたし」は後ろめたさをおぼえる。「苦しみつつではあったが、わたしたちは何とか笑い声を立てつつ、いわば幸福にくらして」おり、そんなふうに「幸福であることの、罪なき罪を感じる」。
だから街頭録音で「宝くじ・競輪・競馬は国民に夢を抱かせるという意味で良い」といったお嬢さんにわたしは反対する。わたしたちに必要なのはそのような夢ではない。わたしたちに必要なのは夢ではなく想像力なのだ。
今の政治家を見てごらんなさい。夢・夢・夢ではないだろうか。秀さんの夢が秀さんの奥さんとアキちゃんをひきずり込んで行った進みゆきを辿れば、今の政治家の夢が国民をひきずり込んで行きつつある進みゆきが連想される。吉田さんをはじめ、重光さんをはじめ、荒唐無稽の精神主義的夢、けちくさい目前の私利私慾的夢は沢山おもちのようだが、国民の生活についての想像力はひどく貧寒であらせられるように思われる。この時、MSA協定は秀さんの競輪のごとく、一時華やかな大穴のごときものであろうか。
MSA協定とは、この小説が発表された昭和29(1954)年に調印された協定である。日米間で結ばれた相互防衛援助協定、農産物購入協定、経済措置協定、投資保証協定という四つの協定を総称し、「MSA協定」と呼ぶ。このMSA協定に向けた予備交渉を担当したのが池田勇人だった。
池田勇人の掲げた所得倍増計画は、まさに「夢・夢・夢」である。そして、日本はその言葉通りに高度経済成長を成し遂げる。昭和44(1969)年には日本の国民総生産は50兆円を突破し、西ドイツを抜いて西側諸国の中では世界第2位となった。東京都知事に就任した美濃部亮吉は、この昭和44年に都営ギャンブルの廃止を表明する。この年には、甲子園競輪場で開催されるはずだった全国都道府県選抜競輪が、地元住民の反対により開催中止に追い込まれている。「特別競輪が開催されると、青空駐車が増え、マナーの悪い人たちが子供に悪影響を及ぼす」と陳情があり、開催にこぎ着けられなかったのだ。
ここにひとつのねじれを感じる。
戦後の混乱期に、自治体は財政を立て直すために競輪開催に乗り出した。競輪も競馬も、公営競技は戦後復興を掲げて開催されており、一攫千金の夢を与えることで売り上げをのばし、街は復興を成し遂げていった。そして、総理大臣が「所得倍増」を掲げ、国民に夢を見せる。公営競技場に足を運ばなくとも、誰もがギャンブルに身を投じているようなものだ。その所得倍増が現実のものとなり、サラリーマンとして働いているだけで当たり車券を手に入れられる時代となったことで、公営ギャンブルに白い目が向けられるようになったのだろう。美濃部都知事の革新都政のもと、日本一の売り上げを誇った後楽園競輪場は、昭和47(1972)年10月26日に開催されたレースを最後に廃止された。同じく都営の競輪場であった京王閣は、主催者を変えて現在まで存続している。
「若い人、ほとんどいないですね」。2杯目のビールを飲みながら、藤田君が言う。「こういう場所って、20年後にはどうなってるんだろう?」
レースが進むにつれて、場内には少しずつ観客が増えてきた。でも、藤田君の言うように、若い人の姿はほとんど見当たらなかった。ただ、だからといって浮いてしまうということもなく、妙に居心地のよさを感じる。昼から飲んでいても白い目で見られないというだけで――誰もが自分の予想とレースのことに没頭していて、周囲のことなんて気にしないというだけで――ずいぶんと落ち着ける。
「大学4年のとき、上京してから初めて実家に帰ったんです」。藤田君はそう語る。「そのとき、うちの父親と一緒に仕事をしてたおじさんが入院してて。その病室に行ってみたら、そこで競馬やってたんですよ。もう癌で長くはないとわかってたから、その人の妻や娘たちも10万円とか渡して、病室でめちゃめちゃ競馬やってて。会えるのはそれが絶対に最後だとわかってたんだけど、そのおじちゃんが別れ際に、『貴大、好きなことやれよ!』って、僕を指差しながら言ったんです。もう麻酔がガンガンに決まってるから、すごいテンション高い感じで言われたんだけど、その一言はすごい記憶に残ってますね」
ぼくはほとんどギャンブルをやったことはない。それでも、人間を乱暴に二種類に分けるとすれば、そのおじちゃん側だという感じがする。
「競輪必勝法」に登場する良雄は、八百長をやって振興会に睨まれたあと、心を入れ替えてまじめに練習に励んだ時期があった。だが、「力いっぱい、練習してみると、やはりアパート一軒たてるくらいの実力しかないことが、よくわかった」。自分の技量の限度を知った良雄は、「大人になるということは、何というつまらないことだろう」と主人公にこぼしながらも、こつこつ賞金を溜めてアパートを建てるつもりだと語る。しかし、次に会ったときにその話題を切り出すと、「ああ、アパート。アパートねえ。」と良雄ははぐらかし、酒を喉に流し込んだ。
「なんだ、アパートは、まだ建ってないのか。」
へへへ、良雄は小ずるそうに笑、あふれそうな盃に、
「こちらから、お迎えに。」
と、口をとんがらかして、吸いついた。
「あの話は、嘘だったのか。」
「いや、嘘じゃない。嘘じゃないけんど。」盃を持つ手つきをして、「こっちが、忙しいきに、そこまで手が回らなあ。」やっぱり同じだと思った。アパートを建てる気持ちがないではないが、目の前に、お金があれば飲んでしまい、借してくれる所があれば、うちには傑い女房がついているからと思って借りてしまい、家中ひっくり返して、女房の貯金帳を探し出し、その貯金は自分が一週間前におろしてしまったことを思い出し、うちの女房はろくな着物を持ってないとふくれながら、まつわりつく子供を蹴とばして、その子の赤いおべべまでかかえこんで、質屋に馳けつけているに、ちがいない。アパートは、良雄の夢なのだ。ここにも弱い人間が一人いると思った。良雄の肩をだき、何で酒が止められんのやろ、何で競輪が止められんのやろと、嘆き合いたく思った。
(能島廉「競輪必勝法」)
ぼくは貯金帳を拝借することもなければ、こどもを蹴飛ばすこともない。でも、入ってきたお金をお酒に費やし、行きたい場所に足を運ぶことに使い切ってしまうという点では、良雄側の人間だ。
第3レースの予想も当然ながら的中しなかった。「きっとこんな展開が待っているはずだ」と、乏しい知識で未来を想像したところで、いざレースが始まると、あっけなく予想とは異なる結果が訪れてしまう。第4レース以降はもう想像するのをやめて、ただビールを飲みながら、レースの行方を漫然と眺めていた。