年の瀬の日比谷公園は静まり返っていた。噴水広場には無数にベンチが並んでいるけれど、座っている人は見当たらず、散策する人の姿もない。公園を抜け、日比谷交差点に出ると、正面にお濠が見える。生まれ育った町には、水路はあっても、こんな風景を目にしたことはなかった。柳の木が揺れ、古めかしいビルディングが建ち並ぶ。こんなふうにお濠端を眺めるたび、おのぼりさんだった頃の自分に引き戻される。
日比谷公園、帝劇、諸官庁、馬場先門。頭の中で「東京節」が流れ出す。大正時代の流行歌に歌われた建物が、100年以上経った今もそこに建っている。消えてしまった建物もあるけれど、お濠端の風景はあまり変わっていないのだと思うと、不思議な感じがする。
ぼくが初めて「東京節」を聴いたのは2011年の春だ。あの春、向井秀徳は「ふるさと」を弾き語りで歌い、「東京節」をバンドで演奏した。「ふるさと」と「東京節」。あれから10年が経とうとする今も、ぼくはふたつの曲を聴いた余韻の中にいる。それは都市に、東京に暮らす上での指針のようなものになっている。
「氷が張ってますね」。お濠を眺めていた藤田君が言う。水面は氷が張っているのか、あるいは油膜が張っているのか、動きはなく澱んでいる。今日はお濠端をジョギングする人の姿もなく、時間が止まっているかのようだ。柳の並木路をしばらく歩けば、東京駅が見えてくる。この東京駅丸の内駅舎について、大正元(1912)年生まれの批評家・福田恆存はこう綴っている。
東京驛の三つのドームが空襲で燒け落ち、そのかはりに最近三角形の屋根が出來た。宮城の方からそれを見るたびに腹が立つ。不樣で見られない。戰前の東京驛は大禮服にナポレオン帽をかぶつてゐたが、現在の東京驛は、服のはうは昔のまま大禮服だが、帽子は戰闘帽といふところだ。東京驛は今日使用中の必需品で文化財ではない。文化財ではないから保護する必要はない。したがつて金はどこからも出ない。雨さへもらなければいいといふわけだ。
(福田恆存「文化の博物館化」)
東京駅の駅舎が焼かれたのは、昭和20(1945)年5月25日の山手大空襲だ。戦災復興工事により、東京駅の屋根は修繕されることになるのだが、応急処置として戦前とは異なる姿に補修された。その姿に、福田恆存は「不樣で見られない」と腹を立てる。ここで福田恆存が問題にしているのは、タイトルにあるように、「文化の博物館化」である。ひとびとは「いまでは信仰の対象でなくなつたもの、生活の必需品でなくなつたもの、さういふものだけを人々は文化と見なし、保護しようと」するけれど、わたしたちの生活の中にある、同時代の文化に目を向けるべきだと福田恆存は論じる。その象徴として東京駅の屋根が挙げられているのだ。
文化は今日われわれの手で造りつつあるものではなくて、すでに過去において形成をやめ、今日ではただ保護さるべきものといふ觀念が、われわれのどこかに殘つてゐるのではないか。われわれは過去の文化財を保護し、それを磨きたてることによつて、ますます自負心を深めるいつぱう、自分みづからの手で文化を形成しようといふ努力に關してはまことに怠惰である。このままでは、われわれのうちに過去と現在とが、まつたく斷絶した形でしか存在しえぬことになつてしまふであらう。
(福田恆存「文化の博物館化」)
福田恆存が生きていたら、現在の東京駅の姿をどう受け止めただろう。
東京駅丸の内駅舎に再開発の話が持ち上がったのは昭和62(1987)年のこと。日本がバブル景気に突入し、各地で大規模な再開発が進められ、国鉄が民営化されるなかで、丸の内駅舎を解体して高層ビルに建て替えるプランが立てられる。だが、「赤煉瓦の東京駅を愛する市民の会」による反対運動が起こると、政府は赤煉瓦駅舎の保全を決定する。2007年に始まった工事を経て、丸の内駅舎は戦前の姿に復原されている。でも、その駅舎を眺めていると、かえって「過去と現在とが、まつたく斷絶」してしまったように感じてしまうのはなぜだろう。
「あれ、東京駅の上ってホテルになってるんだ?」藤田君が駅舎を見上げる。東京駅が開業したのは大正3(1914)年のこと。その翌年には、駅舎の中に東京ステーションホテルが開業している。
このホテルを舞台に、1冊の本が生まれている。江藤淳と蓮實重彦による、『オールド・ファッション 普通の会話 東京ステーションホテルにて』である。ふたりの批評家は、ホテルに宿泊しながら、対談を進めてゆく。まずは食堂で、夕食をとりながら言葉が交わされてゆく。食事を終えると、「そろそろ場所を変えましょうか」とグリルに移動する。「勤め帰りのサラリーマン」でほぼ満席のグリルは、「生ビールを飲みつつ談笑する人々の熱気で溢れかえり、グワーンと店内全体が揺らぐが如く」。その光景を目の当たりにして、ふたりはこんな言葉を交わす。
江藤 |
いいねェー。ここはいいですねェー。 |
蓮實 | 昭和十年代の感じですね、なんか。 |
江藤 | あした支那事変が始まる、というようなね。(笑)昭和十二年七月六日の晩ですよ、これでは。 |
|
(江藤氏、しゃべりながら、ついと立って一階を見下ろす手摺の傍らに。楽しそうに一階の喧噪をながめながら……) |
江藤 | 小津(安二郎)さんは、こういうショットは撮らないんですか? |
蓮實 | そうですね、俯瞰は避けておられますね、小津さんは。 |
江藤 | (笑いながら)見下ろしちゃいけないんですね。 |
ここでさりげなく語られる「昭和十年代の感じ」というのは、ひとつのキーワードとなる。コーヒーを飲み終えると、205号室に移動し、ブランデーを飲みながら長い対話が始まる。そこでふたりは日本の「貧しさ」について語りあう。
江藤 | (…)いやね、豊かな社会とかね、(笑)、言うでしょう。こんなことめったな人には言えないけれども、蓮實さんにお目にかかったら、ぜひ申し上げようと思ってきたのは、わたしどもが子供のころ過ごした世の中というのは、GNPというような指標でいえば、現在とは比べものにならないほど貧しかったに違いない。何十分の一か、もっと貧しかったか。『監督小津安二郎』を拝見していると、蓮實さんはわたくしよりいくらかお若いけれども、ほとんど年代が違わない。似たような育ち方をしているなという、懐かしさを感じるんです。すごく懐かしかったのは、学校の帰りによその家に行っておやつ食べてきちゃいけないということ、(笑)、ねっ、……。 |
蓮實 | そう、そう。 |
江藤 | 家にまず帰ってきて、ただいまと言って、それからだれだれ君のところに遊びに行ってもいいですかと言って、蓮實さんのお家へ行って、おいしいドーナツかなんかただいてきて、それをちゃんと家に戻ったら報告するということで成り立っていましたね。そういう世界があって、それはいろんなものに支えられていたから、いい気になるのは、ほめられたことではないとは思うけれども、子供の感覚の世界としてみれば、それはかけがえのないものですからね。そう考えてみると、あのころわたしどもが享受していた生活、それからその生活を律していた時間のリズムとか、それを取り巻いていた空間の広さとか、いろんなことですね。さらにいえば肉親だけではない、いろいろ身辺にいた人たちとの人間的な交流とか、もろもろの生活を支えていた要素を思い出してみると、いまのほうが豊かだという感じはぜんぜんもてないんですね。いまのほうがおそらく窮乏しているのだろうと思う。(…) |
「幼少年期を懐かしんで美化するのは、あらゆる人間の通弊」ではあるけれど、その「永遠のノスタルジア」を差し引いてみても、「あの頃に比べてちっとも豊かになっていないという感じがする」と、江藤淳は語る。その言葉に、蓮實重彦はこう応じる。
蓮實 | いまおっしゃったことはぼくもいつも考えていることなんですけれどもね。たぶん二つ問題があるような気がするんです。一つは、われわれが幼少年期を送りえた時代には、いまおっしゃったように、学校から帰ってきた時間をどう過ごすか、それを母親にどう報告するかってことが、誰がきめたわけでもないのに、きまっているわけですね。 |
江藤 | そうですね。塾にはいかなかった。(笑)そんなものなかったから。 |
蓮實 | その限りにおいてまったく自由なわけですが、それでも自分の居場所をはっきりきめ、人さまの家でやたらなものを食べない。また友達を塀の外からどう呼ぶかとかそういうことが明確にきまっていましたね。あれはことによるとね、昭和十年代周辺だけに日本のブルジョワの家庭に起こった特殊な輝きじゃないかという気がするんです。歴史的なことなのかなと。つまりそのころ、ようやくそろそろ電話がひけはじめるけれども、電話はあらゆる人の家にあるわけではなかった。それから鉱石ラジオが普通のラジオに変わったとか、郊外電車が延びてゆくとか、昭和十年代周辺の、日本の市民社会が持った一種のエア・ポケットみたいなものじゃなかったろうか、つぎにいろいろな事件が、こう陰惨なものが起こってくるかもしれないけれども、ことによったら、その直前の不気味な明るさを持った秩序、そういうものじゃないかなと思います。 |
「昭和十年代周辺だけに日本のブルジョワの家庭に起こった特殊な輝き」は、文化にも影響を及ぼしており、「文学をとってみても、とくに映画をとってみても、いま見てみると、ちょうどわれわれが生まれて幼少年期を過ごした時期の日本映画というのは、大変すばらしい映画だった」と蓮實は語る。昭和7(1932)年生まれの江藤淳と、昭和11(1936)年生まれの蓮實重彦は、「特殊な輝き」に触れることができた最後の世代にあたる。だからこそ、この本は『オールド・ファッション』と名づけられている。
対話が収録されている東京ステーションホテルもまた、「オールド・ファッション」な空間である。だが、その「特殊な輝き」が今まさに“侵食”される様子を、ふたりは目撃する。最初に食堂で顔を合わせたとき、先に到着していた江藤淳がこんな話を切り出す。
江藤 | (…)いや、そうしたらね、今度は小柄な、年のころ六十前後とおぼしき紳士が、わたしの隣の止り木に座ったんです。それでなんとなくこっちのほうを見たので、未知のひとですけれども挨拶したわけですね。そうしたら先方も挨拶した。今年は天気が悪うございますね、去年も天気が悪うございましたって言っていたら、真っ赤なドレスを着た、明らかに水商売の女性と思われる人が来て、アラッ、社長って言って、紳士の隣りの止り木に止った。(笑)。その人“社長”なんですね。このパーティには埼玉県の県会議員も来てくださるのよ。あ、えらい人ばかりだね。そうなのよ社長、って言ってね。いったいなんだろう、これはって思って、……面白かったね。(笑) |
蓮實 | クラブなんとか開店記念とか、スナックでしたっけね。 |
江藤 | 「輝」というやつでしょう。さっき見てきた。(笑) |
蓮實 | なんで東京駅でやるんだろう。 |
江藤 | それがぼくにもわからなくってね。それで、部屋に戻るときに、ちょっとのぞいたんですよ。そうしたらね、あれはなんというのかな、標示板、あの黒い板の上に白い字で書いてある。“開店記念”“五周年”って書いてあった。でも、なんで東京駅でやるんだろう。(笑) |
こんなやりとりを読んでいると、地方都市に――「都市」と呼ぶにはのどか過ぎる土地に――生まれ育ったひとりとして、憮然とした気持ちになってしまう。ここでもまた、おのぼりさんだった頃の自分に引き戻される。
どうしてぼくは憮然とした気持ちになってしまうのだろう。立場を変えて考えれば、ふたりの気持ちがわからないでもないというのに。
自分が生まれ育った小さな町に、こぢんまりした食堂があったとする。近所に暮らす人たちが毎日のように通っているその食堂に、突然都会からやってきた若者たちが来店し、大声で騒ぎながらお酒を飲んでいたとしたら、ぼくは反感を抱くだろう。そこまで理解した上でも、『オールド・ファッション』を読んでいると憮然とした気持ちになってしまうのは、地方出身者だからということが理由ではない気がする。そしてそれは、復原された丸の内駅舎を眺めていると、「過去と現在とが、まつたく斷絶」してしまったように感じることと繋がっているように感じる。
丸の内駅舎に再開発が浮上したのは、さきほど書いたように、昭和62(1987)年のこと。それからおよそ10年ごとに、丸の内にある歴史のあるビルに、再開発の話が持ち上がる。その結末は三者三様だ。
丸の内駅舎と向かい合うように、丸の内ビルディングが建っている。東京駅と同じく大正時代に建設されたもので、戦前は「東洋一のビル」と呼ばれた。日本建築学会は1997年、このビルを保存するよう要望書を提出したが、所有者である三菱地所はこれを聞き入れず、ビルを解体する。現在の丸ビルは、低層階は以前のビルに似せてデザインされており、高層階は現代風のデザインになっている。
丸ビルの斜め向かいには、かつて東京中央郵便局庁舎が建っていた。昭和8(1933)年に竣工された旧庁舎は、ブルーノ・タウトにモダニズム建築の傑作と称えられた。だが、郵政民営化と前後して「都心の一等地にある庁舎を高層ビルに建て替えるべきだ」という議論が生まれ、2008年に再開発計画が発表される。これに対し、日本建築学会と日本建築家協会は保存要望書を提出し、超党派の国会議員により保存を求める会も結成された。そこで強く再開発に反発したのが鳩山邦夫だった。
東京中央郵便局の取り壊しが進む中、鳩山邦夫担当大臣が、話が違うぞ、とテレビカメラの前で怒り狂っていた。
その映像をニュースショーで流したのち、キャスターやコメンテイターたちは、最近自民党は不祥事続きて支持率がどんどん下がっているから、それを挽回するための人気取りパフォーマンスでしょう、とクールに語っていた。
私は、そういう彼や彼女たちに憎しみをおぼえた。
たとえパフォーマンスはあったとしても、鳩山邦夫のあの発言はリアルじゃないか。
テレビの記者会見で、鳩山邦夫は、自分は少年時、大の切手好きで、兄と二人でよく東京中央郵便局に記念切手を買いに行き、見事な建物だなぁと感じた、あの建物はいくらお金を出してももう建てることの出来ない貴重な文化財なのですよ、と言った。
私も同感である。
鳩山邦夫と由紀夫の鳩山ブラザーズが戦後日本の切手ブームの第一世代だとすれば、昭和三十三年生まれの(東京オリンピック関連の切手によって再びブームが起こる頃幼稚園児だった)私は第二次切手ブーム世代だ。
だから私も切手少年だった。
(坪内祐三「その十二 カウンター」『風景十二』)
切手好きだった坪内少年は、毎日のように日本切手図録を眺めたという。色違いのものを集めるのが好きだったこともあり、やがて「航空切手」をマークする。航空切手とは、航空郵便専用の切手だ。昭和28(1953)年に航空郵便制度が速達郵便制度に組み込まれると、航空郵便は発行されなくなり、切手には額面以上の価値がつくようになる。だが、東京中央郵便局はまだ航空切手が売れ残っていて、額面通りの値段で入手することができた。それを知った坪内少年は、世田谷から東京駅を目指そうとする。私鉄で新宿に出て、そこから国鉄というのが最速のコースだけれども、このコースは値段が高くつく。そこで坪内少年は、最寄り駅からバスで東京駅を目指す。それは都内同一料金として最長路線であり、「車に強いはずの私がバス酔いしてしま」うほどの長旅だった。それはきっと、大人が感じるよりもずっと長く感じられたことだろう。そんな長旅を経て、東京中央郵便局に辿り着いた坪内少年は、その「建物(特にその内部)に圧倒され」、それから何十年経った今でも、酒場のカウンターで「東京中央郵便局の広く天井の高い空間の風景を思い出している」と文章を閉じる。
文章を通じて、ぼくは誰かの目に触れることができる。そこに「特別な輝き」を見出した誰かがいたことを、知ることができる。でも、それはぼく自身のまなざしではない。東京中央郵便局は、外観を保存する形で工事が進められたというけれど、完成したJPタワーは、ぼくの目にはありふれた新しいビルとしか映らない。
戦前の姿に復原された駅舎と、建て替えられたビルと、表面だけ保存された旧庁舎と。3つのビルを眺めていると、自分はどこに立てばいいのかわからなくなる。ぼくは駅舎が空襲で焼かれるまえの美しさを知らず、復原前の駅舎に「不樣で見られない」と腹を立てたことは一度もない。自分がその価値を知らないという理由で、「復原する価値がない」と言うつもりも、「解体してしまえ」と言うつもりもないけれど、そこに何を思えばいいのかわからなくなってしまう。
今から20年近く前に目にした映像を思い出す。それは、タリバンによってバーミヤンの石窟寺院が破壊される映像だ。当時のタリバン政権や、のちに台頭したイスラム国は偶像崇拝を否定し、文化遺産を次々に破壊してゆく。国際社会から非難が浴びせられると、イスラム国はひとびとをこう焚きつけたという。「世界の人々は古代の偶像を破壊されると怒るが、あなたたちのことはどうでもよいのだ。あなたたちのモスクや生活への影響について、世界は真に案じてくれているか?」と。
もしも自分が文化遺産に囲まれて暮らしていたらと想像する。そこでの暮らしに満足していればよいけれど、自分は世界から疎外されていると感じていて、その生活に絶望しているとしたら、どう感じるだろう。
広場にガードマンが佇んでいる。駅前を行き交う人はほとんど見当たらなくて、今ではここにガードマンが立っていることさえ不思議に思える。
「こないだ原宿駅も取り壊されたけど、残念ながら、そういうことにあんまり悲しいと思えないんです」。藤田君はそう語る。「フィレンツェとかを眺めてると、古い街並みを残すってことの意味もわかるんですけど、日本ってそんなことやってこなかったのに、いきなり古いものを再現するっていうのもちょっとわかんないんですよね」
復原された丸の内駅舎を見て、「過去と現在とが、まつたく斷絶」しているように感じるのも、それが理由かもしれない。まわりの風景はもはやまるで違う時代になっているのに、そこだけ昔を復原しているということに。
「『サザエさん』とか『ドラえもん』とかって、すごい都会の子だなって思いながら観てたんです」と藤田君が言う。「北海道だとまず、瓦屋根がないんです。瓦屋根だと、雪で瓦ごと持ってかれちゃうから、基本的にトタン屋根だったんですよね。だから北海道にいたころは、いわゆる日本らしい風景にあこがれていて。北海道の実家に帰るときは北斗星で帰ってたんだけど、青函トンネルを抜けて朝になると、風景を見るのが好きだったんです。その風景の何が好きだったかって、瓦屋根の風景がめちゃくちゃ好きで。北海道にはひとつも瓦屋根なんてなかったから、絶対懐かしいはずなんてないのに、その風景を見てると懐かしいって思うんですよね」
ぼくが生まれ育ったのは田舎町だったから、まわりには瓦屋根の建物ばかりだった。瓦屋根に囲まれて暮らしていたはずなのに、今ではもう、瓦屋根を懐かしく感じる。それは、郷里を離れて暮らしているせいもあるけれど、今では瓦屋根の建物が少なくなってきているせいでもあるのだろう。瓦屋根だけではなく、生活そのものがこの数十年で大きく変わったのだと思う。年の瀬になると、蔵で餅つきをした。つきたての餅を手に取り、丸くまとめていくのは楽しかった。祖母や母は台所や洗面台にも鏡餅を飾っていた。水の神様に休んでもらうのだと、元日はお風呂に入れなかった記憶がある。おせちを作るのも、正月には火の神様や竈の神様に休んでもらうという意味合いがあったのだろう。そんな信仰や習慣から、切り離されてしまっている。だからこそ懐かしくなるけれど、そこにはもう戻ることができない。
ぼくが郷里に暮らしていたのは18歳の春までだ。東京に暮らし始めて18年が経ち、人生の半分以上を東京で過ごしている。一昨年までは年の瀬になると必ず帰省し、実家で年末年始を過ごしていたけれど、去年からは東京で過ごすようになった。藤田君は、上京した頃からほとんど実家に帰らず、年末年始も東京で過ごしてきたという。
「数日前に、『こんな思いで年末年始を過ごすなんて』って一瞬思って、次の瞬間に笑っちゃったんですよね。『こんな思いで年末年始を過ごすなんて』だなんて、なんでそんなこと思ってんの、って。上京してから、クリスマスとかお正月はいつもバイト入ってて、周囲にも『クリスマスとかお正月とか、そういうのは別に重要じゃないから』とか言ってたんです。それなのに、この年齢になっていきなり『大変な年末年始だな』って思うって、お前何なのって、我に返って笑っちゃったんですよね」
丸の内北口で入場券を買って、東京駅に足を踏み入れると、外の静けさが嘘のようだ。スーツケースを引いて足早に行き交う人たちの姿がそこにはあった。12月29日だというのに、新幹線の指定席は売り切れになっていないし、コインロッカーも空きだらけではあるのだけれど、思った以上にたくさんの人が新幹線のりばに向かってゆく。「こんな状況下で移動しようとするなんて」と言いたいわけではなく、帰りたい場所がある人がこんなにもたくさんいるのだと思って、しばらく改札口を眺めてしまう。
ぼくが帰りたい場所はどこだろう。
自分が生まれ育った町のことを、今はもう帰る場所とは言えない気がする。だからといって、東京が自分の街だということもできなくて、根なし草のような気持ちになる。
「ロスト・ジェネレーション」という言葉を頻繁に耳にするようになったのは、今から10年以上前だ。ぼくは昭和57(1982)年生まれだけれど、大学を卒業する2006年の春には新卒者の求人倍率は1を上回っていたから、その意味では「ロスジェネ」には含まれないのかもしれない。でも、そういったこととは別の問題として、「ロスト・ジェネレーション」という言葉には親しみをおぼえた。その親しみは、2008年にマルカム・カウリー『ロスト・ジェネレーション 異郷からの帰還』の新訳を読んだときに、より一層深いものになった。
彼らがロスト・ジェネレーションと呼ばれたのは、一八九〇年代の若い作家たちのような、不幸な、あるいは挫折した世代であるという意味においてではなかった。実は直前の作家世代と比べても、彼らの暮らしぶりはかなり豊かなものだった。(…)フィッツジェラルドは二十四歳にして年に一万八千ドルを短篇小説や長篇小説で稼いでいたし、ヘミングウェイやソーントン・ワイルダー、ドス・パソスやルイス・ブロムフィールドらは、三十歳を迎えるころには国際的に名の通った小説家だった。彼らは先輩作家たちが得ることのできなかった、本を書き継ぐなかで次第に筆を鍛えてゆくというチャンスにめぐまれていた。そもそものはじめから、彼らは職業作家だったのである。
だが、こうしたチャンスや成果にもかかわらず、彼らは長いあいだガードルード・スタインが与えた「だめな世代」という形容が見合った世代とされていた。その理由を知るのはたやすい。彼らが奪われた世代であったのは、なによりまず、どんな宗教や伝統からも切り離され、そうなるべく教育され、ほとんど根無し草であったからだ。彼らが迷える世代であったのは、戦後にあらわれる新たな世界に備えるべく(また戦争のおかげで、もっぱら放浪と刺激とを求めるよう)習い育ったからだ。彼らが喪失の世代であったのは、異郷の地で生きようとしたから、過去のどんな行動規範も受け入れなかったから、そしてまた社会における作家の位置づけについて、誤解を招きかねないイメージを形づくっていたからだ。この世代が生きていたのは、既存の価値を捨て、新たな価値をつくらなければならなかった過渡期である。(…)古い世界からは抜け出しつつあったものの、固執できるような新しいものはなにもなかった。一団となって新たな人生の指針を追い求めてはいたけれど、その指針はまだはっきりしなかったのである。疑いの気持ちとぎこちない抵抗の身振りのなかで、彼らはあらゆるものがもっと確かに感じられた少年時代への郷愁をいだきつづけた。彼らの初期作品がほとんどいずれもノスタルジックで、思い出をいくらかでもとどめようという願いに満ちていたのは偶然ではない。パリやパンプローナで筆をとり、酒を飲み、闘牛を観戦し、色恋にはげみながら、なお彼らはケンタッキーの山小屋を、アイオワやウィスコンシンの農家を、ミシガンの森林を、碧きジュニアータの流れを、そしてトマス・ウルフがいつも口にしていた「失われし、ああ失われし」国を心深くに求めたのである。それは彼らにとって、帰ることのできない故郷だった。
(マルカム・カウリー『ロスト・ジェネレーション 異郷からの帰還』)
ロスト・ジェネレーションの作家たちに多大なる影響を与えたのは第一次世界大戦である。100年前を生きた作家たちと違って、ぼくは戦争を体験したわけではないのに、親しみを感じてしまうのはなぜだろう。それは、過去から切り離され、根なし草となった感覚が自分の中にあるからだろう。
戦後、それぞれの思いを抱えた彼らは、故郷を失った者たちを受け入れてくれるふたつの街――ニューヨークとパリ――にみずからの「居場所」を見出す。わざわざ括弧付きで書くのは、彼らにとってこれらの都市が、重要な知的経験を与えてくれる特別な場所であったと同時に、故郷が抱かせるような帰属意識を決してもたらさない、いわば永遠の仮住まいとでも言うべきものと映っていたからだ。むろんそこには生き生きとした現実の生活があったし、とりわけパリには「万国より集いし売春婦の宿」には、革命家や芸術家たちが集うカフェ「ロトンド」が、「パリ祭」に浮かれ騒ぐ人々の群れが、そしてカウリー自身が深く関わることになった、あのダダイズム運動の狂喜乱舞があったはずである。だがそれにも関わらず――いや多分それゆえにこそ――彼らはその「居場所」で常なる余所者であり続けた。実を言えば、これはニューヨークやパリに限った話ではない。後年、異郷からの「帰還」を果たした彼らは、やがて《コネティカットやキャッツキル山地、ニュージャージー北部やペンシルヴェニアのバックス・カウンティへの大移動》を開始する。(…)だがこの段階に至っても、彼らが取り憑かれているのは《あいかわらず「自分はこの土地の人間なのか」という問題》(…)だ。この嘆きは、最終章で語られるハリー・クロズビーの人生においてもっとも極端な形であらわれ、ついにはある種の狂気へと至るだろう。ハート・クレインがみずから建てた『橋』を渡って逝ってしまったように、ハリーもまた彼自身の、そして彼自身にとってのみ存在する幻の国へと旅立ってしまう。彼らはどこにも「帰還」することなく、最期まで芸術のイグザイルであり続けた――。
(吉田朋正「訳者あとがき」『ロスト・ジェネレーション 異郷からの帰還』)
ぼくはロスト・ジェネレーションの作家たちのように、ニューヨークやパリを目指して「移郷」することもなければ、そこから「帰還」することもないだろう。郷里から上京したことも、「移郷」とは呼べない気がする。そこには、たとえば60年代の若者が東京を目指した感覚とは圧倒的な隔たりがあるように思う。「移郷」しようにも、目指すべき本場はもう、どこにもなくなってしまった。では、これからどこに行けばいいのだろう。
新幹線改札口の近くに、「祭」という駅弁屋がある。ここには日本各地の駅弁が並んでいる。藤田君と別れたあと、ひとりでこの駅弁屋に立ち寄る。さっき藤田君が話してくれた言葉が甦り、目がだるま弁当を探す。
「群馬のじいちゃんちに行くと、正月にだるま市っていうのがあったんです。だるまだけを売る屋台が並んでて、そのあいだに普通のお祭りの出店みたいなのも並んでて、あの風景はすごいお正月って感じがしたんですよね。とにかくだるまが売られてるだけだから、こどもとしては全然面白くはないんだけど。そこで毎年だるまを買って、去年のやつをちゃんと返しに行ってました。各家庭のだるまを集めて、神社みたいなとこで焼くんですよ。その風景もすごいおぼえてますね」
ぼくの家にはだるまが置かれていたことはなく、だるまに目を描き入れて願掛けをする習慣にも馴染みがなかった。あれはなかったものを描くのではなく、心の目が開眼したことをあらわすのだという。
人の記憶に触れると、目が増えてゆく。それは決して自分自身の目になることはないのだけれど、瞳のどこかにそれが張りついているように感じる。
駅弁屋のどこを探しても、だるま弁当は見当たらなかった。じゃあ、どの弁当にしようか。日本各地の駅弁を前にすると、どれを選べばよいのかわからなくなる。これが旅先であれば、「その土地の名物を」と、候補を絞ることができる。でも、こんなふうに全国各地の駅弁を前にすると、ひとつを選ぶことができなくて、駅弁屋を彷徨い続ける。