品川駅北改札を出ると、昨年の春とはどこか風景が違っている。建物は変わっていないけれど、壁に大きく張り出された広告が入れ替わっている。思い返してみれば、駅の構内から広告が消えてしまった時期もあったけれど、今では復活しつつある。改札の前には門松が飾られている。
待ち合わせ場所に立って、今日はどんなふうに挨拶しようかと考える。元日と2日はほとんど家で酒を飲んでばかりいたので、外に出て人と会うのは今日が初めてだ。だから、普通は「あけましておめでとうございます」なのだろうけれど、いつまで経ってもその言葉をうまく発語することができない。「よいお年を」という年の瀬の挨拶も、なんだか気恥ずかしくて、口にしようとするとまごついてしまう。時間通りにやってきた藤田君に、「あけましておめでとうございます」と挨拶されたのに、うまく言葉を返すことができなかった。
「よいお年を!」も、「あけましておめでとうございます」も、どこか晴れやかだ。あんまり晴れ晴れしているものだから、うまく言葉にすることができないかもしれない。年の瀬や新年というものに、ほとんどあこがれに近い感情がある。歳が変われば、すべてが洗い流され、生まれ変わるような心地がする。もちろん12月31日と1月1日のあいだで何も変わりはしないのだとわかっている。わかっているからこそ、その境目に心を寄せてしまう。
券売機で「東京フリーきっぷ」を買う。1600円払ってこの切符を買えば、JRや地下鉄、都電や都バスなど、東京都内のほとんどの交通機関が1日乗り放題になる。改札を通り抜け、1・2番線ホームに降りると、東京方面行きの山手線が入線したところだ。その列車に飛び乗ると、扉が閉まり、電車は走り出す。時計を確認すると12時26分だ。
山手線に乗るときに、始発や終電を除けば、何時何分発の電車があるのか調べることなんてない。なんとなく駅に向かって、電車に乗るだけで、それが何時何分発であるかなんて気に留めることもない。でも、そんな山手線にもダイヤが組まれていて、ダイヤ通りに動いている。ケータイから品川駅の時刻表を調べてみると、土曜と休日の山手線内回りのダイヤには、11時台にはたしかに「26」と書かれている。この山手線がさっきの瞬間に品川駅に入線したのは、あらかじめ決められていたことだ。でも、ぼくがこの電車に乗っているのは単なる偶然に過ぎない。
永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた。われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され、そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて! いったいこの狂った神話は何をいおうとしているのであろうか?
永劫回帰という神話を裏返せば、一度で永久に消えて、もどってくることのない人生というものは、影に似た、重さのない、前もって死んでいるものであり、それが恐ろしく、美しく、崇高であっても、その恐ろしさ、崇高さ、美しさは、無意味なものである。(…)
ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』は、およそ小説らしくない書き出しで始まる。ロベスピエール、ヒットラー、パルメニデース。歴史上の人物の名前が続いたあとに、ようやく小説の登場人物であるトマーシュの名前が登場する。著者は「トマーシュのことをもう何年も考えている」が、「重さと軽さという考え方に光を当てて初めて、彼のことをはっきり知ることができた」と綴る。
トマーシュは、最初の妻との結婚生活を終えたあと、自身が“性愛的友情”と名づけた関係に終始する。特定の相手との関係が「アグレッシブな恋愛」へと発展しないように、「継続的に付き合っている愛人の誰とも非常に長いインターバルをおいてしか会わなかった」。そのシステムによって「かなり数多くの短期の愛人を持つことに可能にした」が、テレザとの偶然の出会いがシステムに変更を迫る。チェコの小さな町で出会ったふたりは、1時間ほど一緒に過ごす。その10日後にテレザはトマーシュを追いかけてプラハにまでやってきて、「二人はその日にもう愛し合った」。夜になるとテレザは高熱を出し、1週間ほど寝込んだあと、小さな町に帰って行った。トマーシュは「ほとんど何も知らない娘に説明し難い愛情を感じ」、「彼の人生での鍵とも思える」瞬間を迎える。窓辺に立って、中庭越しに向こう側のアパートを眺めながら、テレザをプラハで暮らすように呼び寄せるかどうか、考え込んだ。
人間というものは、ただ一度の人生を送るもので、それ以前のいくつもの人生と比べることもできなければ、それ以後の人生を訂正するわけにもいかないから、何を望んだらいいのかけっして知りえないのである。
テレザと共にいるのと、ひとりぼっちでいるのと、どちらがよりよいのであろうか?
比べるべきものがないのであるから、どちらの判断がよいのかを証明するいかなる可能性も存在しない。人間というものはあらゆることをいきなり、しかも準備なしに生きるのである。しかし、もし人生への最初の稽古がすでに人生そのものであるなら、人生は何の価値があるのであろうか? そんなわけで人生は常にスケッチに似ている。しかしスケッチもまた正確なことばではない。なぜならばスケッチはいつも絵の準備のための線描きであるのに、われわれの人生であるスケッチは絵のない線描き、すなわち、無のためのスケッチであるからである。
Einmal ist keinmal(一度は数のうちに入らない)と、トマーシュはドイツの諺をつぶやく。一度だけ起こることは、一度もおこらなかったようなものだ。人がただ一つの人生を生きうるとすれば、それはまったく生きなかったようなものなのである。
(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳)
「永劫回帰」は、ニーチェが『ツァラトゥストラはこう言った』の中で初めて提示される概念だ。ツァラトゥストラは、「一切は空しい。一切は同じことだ。一切はすでにあったことだ!」という予言者の言葉に打たれる。そして、動物たちから、「あなたは永遠回帰の教師なのだ――、これがいまからのあなたの運命なのです!」と告げられる。永劫回帰は、生まれ変わりを否定する。人生はすべて一度限りであり、たとえ生まれ変わったとしても、同じ人生がそっくりそのまま繰り返される。
この思想は、この世界をはかないものとして軽視し、別の世界へ目を向けることを教えるような、すべての宗教を拒否する。この現在の意義を未来に求め、最後の審判や神の国の実現(や理想社会の実現)の視点から今を意味づけるような、すべての目的論的世界解釈を否定する。(…)
つまり、永遠回帰思想の最大のポイントは現実肯定にある。この世界を、外部からの意味づけによってではなく、現実であることそれ自体によって、この瞬間を、過去や未来の視点からの意味づけによってではなく、今であることそれ自体によって、この人生を、他社や外部の視点からの意味づけによってではなく、自分であることそれ自体によって、そのまま肯定することを、それは教えるのである。だからその肯定は、この世界を、この瞬間を、この人生を、それ自体として、奇跡として、輝かしいものとして、感じるがゆえに、おのずとなされる肯定でなければならない。
(永井均『これがニーチェだ』)
山手線は円を描くように走ってゆく。「京浜東北線はただ今の時間、田端まで快速運転を行っております」。車掌のアナウンスが車内に響く。次の停車駅は田町で、京浜東北線に乗り換えられる。「途中駅の、東京、神田、秋葉原、御徒町、上野、田端へお急ぎのお客様はお乗り換えください。東京駅へお急ぎのお客様、1番線、快速の南浦和行きをご利用ください」。正月休みを東京で過ごして、これから新幹線でどこかに帰っていく人もいるはずで、その人たちに向けてアナウンスしているのだろう。でも、東京駅に到着しても、そこで降りる乗客はほとんどいなかった。
皆、どこに向かっているのだろう。
もしも人生が繰り返されたとして、それでもぼくはこの時間のこの車両に乗り込んで、こうして藤田君と並んで座っていただろうか?
藤田君と最初に会ったのは、ちょうど10年前の春だ。そしてそれは、偶然同じ飲み会に居合わせたというだけで、直接言葉を交わしたわけでもなかった。でも、その佇まいが気にかかり、それまでほとんど演劇を観る習慣なんてなかったのに、藤田君の作品を観に出かけ、10年経った今、こんなふうに並んで電車に揺られている。針の糸を通すような偶然が、ほんとうに繰り返されるのだろうか?
『存在の耐えられない軽さ』において、トマーシュとテレザが出会ったのはまったく偶然の産物だ。その考えは「彼をいやな気分にさせた」。
しかし、ある出来事により多くの偶然が必要であるのは、逆により意義があり、より特権的なことではないであろうか?
ただ偶然だけがメッセージとしてあらわれてくることができるのである。必然的におこることや、期待されていること、毎日繰り返されていることは何も語らない。ただ偶然だけがわれわれに話しかける。それを、ジプシーの女たちがカップの底に残ったコーヒーのかすが作る模様を読むように、読みとろうと努めるのである。
(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳)
トマーシュと出会ったとき、テレザはレストランで働き、ビールを運んでいた。そんなテレザを、客としてやってきたトマーシュが呼び止める。他の客たちのように下品な言葉を投げかけることもなく、テーブルの上に本を広げていたことで、彼女は彼を「他のものより高く」感じた。トマーシュがテレザに「コニャック一杯」と注文した瞬間に、ラジオから音楽が流れた。それはベートーベンが聴こえてくる。ベートーベンは「彼女が憧れていた世界、向こう側の世界のシンボル」であり、見ず知らずの男性から話しかけられたときに、まさにそのベートーベンが流れてきたことに、彼女は意味を見出そうとする。そこには「必然性ではなしに、偶然生に不思議な力が満ち満ちているのである」と。
ところで、この小説の舞台となるのは1968年だ。この年の春、チェコスロバキアでは変革運動が起こり、「プラハの春」と呼ばれた。この動きが社会主義圏に波及することを恐れたソ連はプラハに侵攻し、以後30年以上にわたってソ連軍は駐留し続けることになる。ソ連が侵攻してきたあとに、トマーシュとテレザは飼い犬のカレーニンを連れチューリッヒに逃れる。
カレーニンはスイスへの引っ越しをけっして喜ばなかった。カレーニンは変化を憎んだ。犬の時間は一つのことから他のことへとたえず前進して直線的に進んでいくのではない。時計の針と似て、円を描いて動いている。時間を示す針も狂ったように前へ前へと進むのではなく、一日一日文字板の上の同じ軌道を回るのである。プラハのときは新しい椅子を買ったり、植木鉢の場所を変えるだけだったが、カレーニンはこのようなことも気に入らなかった。そのことがカレーニンの時の感覚を乱したのである。それはまるで文字板上の針にとって数字をしょっちゅう変えるようなものであった。
それにもかかわらず、犬はチューリッヒの住居でも古いしきたりと古い儀式をまもなくとりもどした。プラハにいたときと同じように、新しい日を迎えて二人を歓迎するため、朝になるとベッドの二人のところに飛び上がった。そして、朝一番の買物へテレザのお伴をし、プラハのときと同じように規則的な散歩をせがんだ。
(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳)
上野駅にたどり着く。ターミナル駅だからか、ホームに停車している時間が他の駅より少し長いように感じる。発車メロディは流れず、プルルルルとベルが鳴って扉が閉まる。上野駅を過ぎると、鶯谷、日暮里、西日暮里と駅が続く。
「このへんの駅って、ほとんど降りたことないな」。路線図を眺めながら藤田君が言う。「ああでも、日暮里って、学校だった場所を改装した稽古場があって、『ハロースクール、バイバイ』の稽古をやってるとき、そこで大げんかした記憶がある」。記憶を辿っているあいだも、電車は進んでゆく。田端、駒込、巣鴨。「ああ違う、あの稽古場は『にしすがも創造舎』だから、巣鴨だわ。全然違った。日暮里の記憶はあれだ、布屋さんに行って、その帰りに大げんかしたんだ」。いずれにしても、土地の記憶とけんかした時間が結びついて残っているのがおかしかった。
反対方面の山手線とすれ違う。すれ違う山手線は、必ず進行方向の右側を通り過ぎてゆく。今まで考えたこともなかったけれど、電車も車と同じように、左側を走る。だから、時計の針と同じように動く電車が「外回り」で、反時計回りが「内回り」なのだという。そんなふうに世の中がまわっているだなんて、今まで考えたこともなかった。
私たちの社会生活が複雑になればなるほど、私たちは自分で自分の役を選びとることができない。また、それを最後まで演じきって、去って行くこともできない。私たちの行為は、すべて断片で終る。たえず、ひとつの断片から他の断片へと移っていく。その転移は必然的な発展ではない。たんなる中絶である。未来はただ現在を中断するためだけにやってくるのだ。現在が中断されることによってしか未来は起りえず、見たいとはたんに現在の中断しか意味しないのである。が、私たちは、現在の中断でしかない未来を欲してはいない。そんなものは未来ではないからだ。私たちの欲する未来は、現在の完全燃焼であり、それによる現在の消滅であり、さらに、その消滅によって、新しき現在に脱出することである。私たちのまえには、つねに現在しかない――そういう形で、私たちは未来を受けとりたい。中断された現在のあとに、真の未来があろうはずはない。
(福田恆存『人間・この劇的なるもの』)
時間は過去から現在、未来に進んでゆく。記憶を辿ることはできても、時計の針が反対方向に回ることはない。そもそも、時間が「進む」とは、一体どういうことだろう。
時計の長針が一周すると、短針が少しだけ進む。それを繰り返すうちに季節がめぐり、また1月1日が訪れる。でも、同じ1月1日であっても、去年は2020(令和2)年の1月1日で、今年は2021(令和3年)の1月1日だ。西暦はキリストの誕生を、元号は天皇の即位を起点に数える。時間は円環し、繰り返しながらも、そこには起点がある。円環する時間の中に、人間は生まれ、やがて死を迎える。
初めて葬式というものに参加したのは、母方の曽祖母が亡くなったときだ。百歳近くまで生きた曽祖母は、物心ついたときにはもう寝たきりになっていた。ぼくが学校から帰ってくると、曽祖母の寝ている部屋に行き、よく一緒に相撲中継を眺めていた。何か言葉を交わしたことだってあったはずなのだけれども、曽祖母と会話をした記憶は何も残っていなくて、彼女がどんな声をしていて、どんな性格だったのかも思い出すことはできない。記憶にあるのは、その部屋でただただ一緒に過ごした時間と、曽祖母が亡くなったあと、家の中が白と黒で満たされた風景だけだ。曽祖母の葬式は自宅でおこなわれ、仏壇のある客間に大勢の人が喪服姿で集まってきた。壁には幕が張られていて、こんな黒い幕、普段はどこに仕舞われていたんだろうと疑問に感じたことを思い出す。
「近所に住んでいたおばさんが亡くなったとき、『お葬式は開かないで欲しい』って、『お坊さんにきてもらうのも嫌だ』って固く言っていたんです」。藤田君は窓の外を眺めながらそう話す。「だから、弔うってことをしなかったんです。その死に方を見て、それはたしかにまっとうではあるよなと思ったんですよね。遺言とか残せる死に方なんだとしたら、ぼくもそうしたいなって、咄嗟に思ったというか。ただ、とはいえ、まわりからすると、祈る気持ちがないわけではないよなって思うんですよね。彼女は弔われたりすることが嫌だったんだろうけど、『こっちは手を合わせたかったよ』とも思ったんです。だから、自分が死んだとしたら、残された皆には、72時間ぐらいはぼくの周りで飲んでて欲しいなとも思うんですよね」
自分が死んだあとのことを想像する。大して仲良くもなかった人から沈痛な面持ちで棺桶を覗き込まれたり、勝手な思い出話を語られたりしたら、それに耐えられないだろう。でも、自分が死んだあとのことにまで「こんな世界であって欲しい」と思っていたら、死んでも死にきれないという感じもする。
「そう、だから、ちょっとダサくても、されるがままがいいのかもしれないなってことも思うんですよね。生きるって前提がないと、『こうあって欲しい』とは思えないというか。死なれた側としても、区切らないとやってけないから、葬式をやるんでしょうね」
近しい誰かが亡くなると、わたしたちは日常生活を一時停止して立ち止まり、葬儀に参列する。葬儀に限らず、なにかの儀式があるたびに、立ち止まる。
死は私たちに日常生活の停止と、それからの逃避の機会をもたらすが、もし会葬者がいなかったら、そして葬儀という儀式の型が存在しなかったら、いいかえれば、もしそのばあい、生活がべつの次元に、それみずから完結した世界を形づくらなかったとしたら、私たちはいかに行動していいか、まったくその方途を見うしなうであろう。葬儀は、遺族たちをして、まず悲哀の深みに沈潜していかしめ、さらにかれらが密室のなかに閉じこめられて身うごきできずにいるとき、その扉を開いて、死から生への橋渡しをするのである。そこに、私たちは劇場におけるいとなみと、まったくおなじもの見る。遺族は悲劇の主人公であり、会葬者は観客である。そして会葬者もまた死を経験し、死から生への過程を演じるのである。私たちのなかのハムレットが死に、フォーティンブラスがよみがえるのだ。
私たちは三十五日とか四十九日とか、あるいは一周忌、三回忌というような法事をいとなむが、会葬者はもちろん、遺族の悲しみも、そのたびごとに浅くなる。遺族は舞台を降り、会葬者とおなじ平面に立つ。七回忌、十三回忌となれば、もはや遊山と変りはない。それは死者のための死の儀式であるよりは、生き残っている正者のための生の習俗と化してしまう。
(福田恆存『人間・この劇的なるもの』)
時間の円環の中で、わたしたちの悲しみは、ほんとうに浅くなるのだろうか。その瞬間は過去として遠ざかったとしても、その瞬間に浮かんだ感情が浅くなるということは起こり得るのだろうか。
「上京するときにまず、『山手線は丸い』ってことを父さんに教えてもらった気がする」。藤田君が言う、「父さんだって絶対、いま東京にきたら絶対迷うはずなのに、『山手線を中心に考えたらいいんだ』みたいに説明し始めたんですよね。でも、たしかに、乗り過ごしたとしても、山手線に乗ってればまた同じ場所に戻るっていう安心感はあった気がする」
電車は64分30秒かけて山手線を一周し、再び品川駅にたどり着く。この車両は、一日に何回この線路をまわるのだろう。最初に乗っていた乗客は、皆どこかしらの駅で降りて、誰もいなくなった。
『存在の耐えられない軽さ』に登場するカレーニンという犬のことを思い出す。ミラン・クンデラは、犬の時間は人間とは違って、「時計の針と似て、円を描いて動いている」と綴っていた。しかし、作品の終盤で、カレーニンは癌を患う。テレザとトマーシュは、そんなカレーニンにありったけの愛情を注ごうとする。「犬への愛は無欲のもの」であり、何の見返りも求めない。テレザはカレーニンを「あるがままに受け入れ、自分の思うように変えることを望まず、あらかじめ、カレーニンの犬の世界に同意し、それを奪おうとはせず、カレーニンの秘め事にも嫉妬しなかった」。どうして人に対する愛情は、そのように存在し得ないのだろう?
(…)主なることは、どんな人間でももう一人の人間に牧歌という贈り物をもたらすことができないことである。これができるのは動物だけで、それは《天国》から追われていないからである。人間と犬の愛は牧歌的である。そこには衝突も、苦しみを与えるような場面もなく、そこには、発展もない。カレーニンはテレザとトマーシュを繰り返しに基づく生活で包み、同じことを二人から期待した。
もしカレーニンが犬でなく、人間であったなら、きっとずっと以前に、「悪いけど毎日ロールパンを口にくわえて運ぶのはもう面白くもなんともないわ。何か新しいことを私のために考え出せないの?」と、いったことであろう。このことばの中に人間への判決がなんもかも含まれている。人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。
そう、幸福とは繰り返しへの憧れであると、テレザは独りごとをいう。
(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳)
トマーシュは、テレザと出会ったことで外科医であることを辞めることになり、窓拭きとして小さな町で暮らすようになる。最初のうちは「都会から知識階級がやってきた」ともてなされていたけれど、今では町の人も、彼を特別扱いすることはなくなった。
テレザは踊りながらトマーシュにいた。「トマーシュ、あなたの人生で出会った不運はみんな私のせいなの。私のせいで、あなたはこんなところまで来てしまったの。こんな低いところに、これ以上行けない低いところに」
トマーシュはいった。「気でも狂ったのかい? どんな低いところについて話しているんだい?」
「もしチューリッヒに残っていたら、患者の手術ができたのに」
「そして、お前は写真が撮れたね」
「その比較はよくないわ」と、テレザはいった。「あなたにとって仕事はすべてよ。でも、私は何でもできるわ。私にとっては何でも同じよ。私は何も失ってないわ。あなたは何もかも失ったの」
「テレザ」と、トマーシュはいった。「僕がここで幸福なことに気がつかないのかい?」
「あなたの使命は手術をすることよ」と、彼女はいった。
「テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていなくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ」
(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳)
使命や運命というのは、別の存在によって与えられたものであり、そこに自由な意志や選択が介在する余地はない。でも、トマーシュがテレザと一緒にいることは運命ではなく、ただの偶然によって生まれたものでありながらも、そこにいるのは他の誰でもなく、その相手でなければ幸福であることはできない。「幸福とは繰り返しへの憧れであると、テレザは独りごとをいう」。
品川を出た電車は、高輪ゲートウェイ、田町と走る。この風景は2周目だけれども、さきほど目にした風景とはどこか微妙に違っているのだろう。「こっち側の座席に座ってるってことは、ぼくらは山手線の外側を見てるってことですね」と藤田君がつぶやく。品川から新橋まで、去年の春に2時間近くかけて歩いたルートを、山手線はわずか8分27秒で移動する。
新橋駅で電車を降りて、改札を抜ける。死ぬということは、円環の中にいるようなものなのかもしれない。そこにはもう新しい偶然が舞い込む余地はなく、世界は閉じている。それとは反対に、生きている限り、わたしたちは動き続ける現在に立たされている。どんなに過去に引きずられていても、立っているのは過去ではなく、現在だ。扉を開いた隙間から、見知らぬ何が偶然飛び込んでくる瞬間を待ちながら、はっきりとした目的地を持たないまま、駅を出て歩き出す。